2009年6月26日金曜日

さだまさしの「加速度」

この頃はさっぱり機会がなくなりましたが、カラオケに行くとおおよそ守備範囲がそれぞれにわかっておもしろいです。

わたしもご他聞にもれず、ちょっと歌うと「ああ、あの時代ね」とわかられること明々白々ですが、なかでもこの曲には思い入れがあります。

ケータイ全盛の今、なかなかイメージが持てないかもしれないけれど、家以外の電話は公衆電話しかなかったこと、それゆえの切なさやあきらめがよく表されているように思うのです。

テレフォンカードすらない公衆電話。切れそうになるときにつぎ足す10円玉、10円玉がなくて泣く泣く入れた100円玉(電電公社の手抜きのため、おつりが出なかった)、理不尽なことを含めて、公衆電話には有り難み、困惑、いらだちと色々な気持ちが交錯します。

1980年代終わり、阪急梅田駅の近く、今も思い出すワンシーン。コンサートチケットをとりたかったのでしょう、若い女性がプッシュフォンを何度も何度も押して、つながるよう掛けていました。リダイアルもなく、インターネットはもちろん影も形もなく…。これでも当時は、ダイヤルを回さなくてよかった点でけっこう進んでいたのだけれど。

「最期の電話がことりと切れて、僕の手に残ったのものは、発信音と穏やか雨のさざめき。途絶える直前の君の優しさは最期にピリオド打たなかったこと」という、さださんの歌詞は、やりとりできないもどかしさの反面、けっこう運に任せてしまう(どうしようもなく)ことの両方を含みこんでいいなあ。

つきあっていた頃、いまのパートナーに一つ感心されたのは、待ち合わせをしていたのになぜか会えず、1時間以上経って待ち合わせ場所から、ぶじ帰ったかどうかを彼女の家に電話したこと。当時はそれしか確かめようがなかったからね。

外で他者と会うことが難しかった頃、その不便さと有り難みは、今やどちらもほぼなくなってしまいましたね。

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