2010年2月27日土曜日

敗戦直後でもないかぎりは…

 民主党がマニフェストに掲げた「教員養成6年制」について、鈴木寛文部科学副大臣は27日、福井市内で講演し、6年制にこだわらず、「『4年プラスアル ファ』で少なくとも1年間、長期教育実習を抜本的に拡充する」と語った。教師になるまで従来の4年が6年に延びると学生の負担が増すなどの批判があり、マ ニフェストを修正して現実的な案を示した形だ。(朝日新聞、2010年2月27日)

新政権はあれこれの改革を公約にぶちあげたが、またも修正が行われそうだ。

仮に、長期教育実習のための学生の在学年限延長という話ならば、基本的には大学の問題ではなくなる。大学がお願いする学校の負担が問題なのだが…。「実習公害」と嫌がられないかなあ。あるいは、体よくボランティア要員にされたりして…。

教員養成を長期化するほど良いという論理を支えたのは、知識の基盤が安定しており、長期的に「知は力」と言えそうな時代だった。ところが現在、「10年ひと昔」はとうの昔の話となり、来年のことすらわからなくなっている状況だ。入職の前の段階で、「実践的」内容を長く学ぶ意義は何だろうか。

そこでは、早くから「現場」を知ることのマイナス面、職業的保守化や、現職になってからの研修への意欲の喪失(教えられ疲れ)を考えなければならない。長いほど良いという訳ではないのだ。

今回の教員養成改革論が、「大山鳴動して鼠一匹」になるかどうか、政局によるところ大だが、それと同時に、いろいろな既得権と経緯が絡む中、「改革」などというものがなされるはずもなく、またなされるべきでもない、という基本認識が大切ではないか、と強く思う。

いつの時代であれ、「改革論」とことあるごとに主張してきた御仁は少なくないが、教育学を含む社会科学は自然科学と違って、学問の力で制度を変える力は基本的にない、と見極めることが大切だろう。自然科学はそれにしたがい、あるいは踏まえることが人間のメリットになるが、社会がどのように構成されるかは、偶然に決まる部分が大きいし、仮に「法則」がわかったとしても、法則の適用範囲に自分が含まれていれば、そこから離れることは容易でない。「知らなければ良かった」に近い状況になるのだ。ましてや、学問的知見を踏まえて「改革」がなされたと言えるほどに、「改革」の時間は長く続かない。後智恵で「こうしたから、ああなったんだ」と、まるでヒットを打った選手を評する解説者のようなことをするのが関の山である。だったら、打つ前に言わんかい。ほんなら、2つが関係してたんやなって納得するわ。

もっとも例外はある。「大政奉還」や占領下といったきわめて非日常の状況下だ。それならば、時の為政者の意向によって、「非政治的な」チャンネルが生かされ、ある方向が強く示されることはありうる。しかしなが、こんな機会はそう望むことができるものでもないから、総じて「改革」は失敗する。

ひょっとしたら、そんな「改革」ではなく、派手さには欠けるが「静かな革命」が、あとになってみれば変革につながるキーとなっているのかもしれない。真実は細部に宿る、日々の営みを丁寧に見つめたいと、改めて思う。

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