わたしを含め、「言いたい放題」が可能になったネット社会、対岸の火事よろしく、いい加減な調査で、自分の思いだけ先行する類の書き込みが多いように感じる。
ここまで間接情報がなかった時代、「お前、見たんか」と言われれば仕方なく黙らなければならない場面が往々にあった。不確かな情報だけで判じることの軽さが問われたから。しかし、文字と写真あるいは動画を通じて、間接情報が「そのまま」を伝えてくれると、しばしば確信させてくれる現在、伝聞をもとに判断して何ら問題なし、「言わな損」とばかりの雰囲気になっていることを憂う。それが特定の相手に対してとなっていない分だけ、情報の「ゆがみ」は加速される。質の低い伝言ゲームということだ。
直接に接したときですら見え方は一様でないのに、書き手のフィルターを通じて加工された情報をさらに自分の「めがね」で編集して「事実」がこうだと判じる。
誰しも「事実」から遠いところで判断せざるをえないことはやむなしの面もあるからこそ、評価を下すときにはより慎重にまた謙虚でありたい。誰かの尻馬に乗って、「そうだそうだ」と自分が批判される心配のない高みから言うのではなく、「もし自分だったら」と想定して、どう事態を見るか、どんな判断ができるか、いかに行動できるか、を考えたい。
すぐれた論文は何十年経って読み返してもおもしろい。早々に使い捨てにならないような文章が書けるように努力したいと思う。書く者の責任をいっそう感じられるように自分をマネジメントしたい。
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