若者の自動車離れの影響か、自動車教習所に通う人が減っているとNHKニュースで見た。
限られた層をつかまえるべく、各地の教習所は工夫をこらしている。合宿施設の大幅な改修とホテル並の対応、雨のときには指導する教員が受講者に傘を差して車までエスコートというサービスぶりだ。
そこでの会社幹部の話が興味深かった。曰く、生徒という見方をするとどうしても「上から」という態度になりがちだが、お客さまと捉えることによって接し方も変わる、と。
わたしが捉えるところの「教育的まなざし」はまさにここにも当てはまる。黙っていても、自分が相手をどのように見ているのか、そしてそれが相手にどのように受け止められるのか、こうした視線のやりとりが非言語的な部分で対人関係を形作るということだろう。
よって、学校で働く教員も子どもをいかにつかむか、理解するか、を論じると同時に、そのように掴もうとする自分が相手にどんな表情あるいは雰囲気を伝えることになっているか、それが相手に何を引き起こすことになりやすいか、についても考えることが大切である。ちょうど、社会調査の際に戒められるように、調査しようとすること自体が相手に影響を及ぼす点が、教育実践についても同じく踏まえられなければならない。
モノにではなく人に働きかける教育実践の特性は、相手の持つ曖昧さや偶有性から導かれるだけではない。それは、実践しようとする者が意識的・無意識的に注いでしまう眼差しなどの非言語的メッセージが、主に言語的に表現されるメッセージと非整合的なことが相手に気づかれてしまうことがあるゆえに、直線的に実践が伝わらないという不安定さから来るのだ。この点で、実践には「ほどほど」に臨むことが、かえって効果的たりうるという逆説が成立しうる。
教員のふるまいと教育・学習活動、その場としての学校-新しく気づけることはまだまだありそうだ。
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