2009年6月29日月曜日

教員のコミュニケーションの力量

このごろコミュニケーションについて学びたいと思っている。

「学校の常識は社会の非常識」という言い方に、ほんの一部、真実味があるとすれば、それは教員の言語的・非言語的なコミュニケーションの状況から伺うことができると思うのだ。

たとえば、接遇という言葉。私の限られた経験に過ぎないが、ほとんどの教員はこの言葉を知らないように思う。いわゆる社会人になれば、一番に学ぶ言葉だろうが、この言葉を知らないままに何十年と過ぎてしまいかねない環境は一考に値するのではないだろうか。

きょうの小さな経験。
大学院の授業に遅れると現職の教員でもある学生から電話があった。学生の場合、氏名を名乗られるだけではこちらはわからない。たまたまかもしれないが、自分がどのように受け止められるかを想像しながらやりとりすることに、教員の一部の人はひょっとしたら慣れていないのかもしれない。対人関係づくりは教職で問われるもっとも根幹の力量かと思うのだが。

2009年6月26日金曜日

さだまさしの「加速度」

この頃はさっぱり機会がなくなりましたが、カラオケに行くとおおよそ守備範囲がそれぞれにわかっておもしろいです。

わたしもご他聞にもれず、ちょっと歌うと「ああ、あの時代ね」とわかられること明々白々ですが、なかでもこの曲には思い入れがあります。

ケータイ全盛の今、なかなかイメージが持てないかもしれないけれど、家以外の電話は公衆電話しかなかったこと、それゆえの切なさやあきらめがよく表されているように思うのです。

テレフォンカードすらない公衆電話。切れそうになるときにつぎ足す10円玉、10円玉がなくて泣く泣く入れた100円玉(電電公社の手抜きのため、おつりが出なかった)、理不尽なことを含めて、公衆電話には有り難み、困惑、いらだちと色々な気持ちが交錯します。

1980年代終わり、阪急梅田駅の近く、今も思い出すワンシーン。コンサートチケットをとりたかったのでしょう、若い女性がプッシュフォンを何度も何度も押して、つながるよう掛けていました。リダイアルもなく、インターネットはもちろん影も形もなく…。これでも当時は、ダイヤルを回さなくてよかった点でけっこう進んでいたのだけれど。

「最期の電話がことりと切れて、僕の手に残ったのものは、発信音と穏やか雨のさざめき。途絶える直前の君の優しさは最期にピリオド打たなかったこと」という、さださんの歌詞は、やりとりできないもどかしさの反面、けっこう運に任せてしまう(どうしようもなく)ことの両方を含みこんでいいなあ。

つきあっていた頃、いまのパートナーに一つ感心されたのは、待ち合わせをしていたのになぜか会えず、1時間以上経って待ち合わせ場所から、ぶじ帰ったかどうかを彼女の家に電話したこと。当時はそれしか確かめようがなかったからね。

外で他者と会うことが難しかった頃、その不便さと有り難みは、今やどちらもほぼなくなってしまいましたね。

2009年6月21日日曜日

新幹線に食堂車があった頃

みなさま、実にお久しぶりです。
この間、拙ブログをのぞいてくださった方、さぼりっぱなしでごめんなさい。

ある事件についてえらく心がくたびれてしまい、気力喪失状態が続いておりました。どなたかがブログに、足利事件(菅谷さん冤罪事件)と同事件とのダブルスタンダードと題して、一面的な捉え方に警鐘を鳴らされていますが、同感です。限られた情報だけで「わかった」とすぐに判断して評価を下さないこと、「なぜ…」と一度疑ってみること、より慎重に多面的に事態を理解しようとする姿勢を保つことが、多元的社会ではいっそう大切ではないでしょうか。

さて、きょうは実に奇遇なことに、鳥取のIさんに大阪でばったり出会ったので(蕎麦屋さんにいたら、後ろから私を呼ぶ声が…。現職の先生の誰かかなと思いながら、ちょっと店を出て戻ったら、2年少し振りに会う御仁が座っておられました。ああ、びっくりした(^^;))。そんな日だったので、袖振れ合うも…と、昔話を思い出した次第です。

以前、新幹線には食堂車がありました。四半世紀近く前、大学院生だった頃、東京の神保町や早稲田界隈に出かけては古本を買っていましたが、東京からの帰り、新幹線の扉が開くやいなや、一番奥にあるふかふかクッションの席を陣取るべく一目散に食堂車に向かったのです。

テーブルのない座席では、揺れる車内ゆえノートをとることが難しく、ちょっと考え事をするには食堂車のテーブルが最適だったのです。それに広いし、車内販売の声に邪魔されることもないし。

とはいえ、食事はなしです。ご想像がつくように食堂車のメニューはどれも高くて…。オレンジジュース(たしか350円だったと思う)だけ頼んで、できるだけ長く粘ったものです。店からすれば、なかなかええ根性してますね。

そんなある時、すでに先客がいて目指した席はなかったので、4人用の席に座っていました。頼んだのはいつもと同じ、オレンジジュース。そこに「相席よろしいですか」とボーイさんの声。斜め前に壮年の男性が座りました。

男性は料理を頼んでビールを飲まれていたのですが、しばらくすると、なぜか前に座っている私に「どうですか」とグラスを勧められました。こういうお誘いにめっきり弱い私なので(要は飲むのが好きというだけですが…)、ありがとうございます、と頂いたのでした。

それがきっかけでした。どんな話から始まったか忘れましたが、えらく盛り上がってしまい、気分が良かったのでしょう、その男性は次々と料理を頼みはじめました。もちろん、ビールも次々とお代わりです。

内心、ひやー、すごいことになったなあと恐縮しながらも、こちらも実に楽しくおしゃべりしていました。茨城の工場で働いていること、息子さんが…云々と話が続きます。こう振り返れば、わたくし、人の話を聴く素養はあったのかしらん。

そうこう1時間半ほど過ぎたように思います。本当にたくさんいただきました。お酒も食べ物も…。そこで、ちょっとトイレにと失礼して戻ったところ、男性がいません。ボーイさんにたずねると、もう支払いを済ませて出たとのこと、びっくりしました。

割り勘払いとは考えていなかったものの、ちゃんとお礼も申し上げず、お別れも言えず…。悪かったなあと思いながら、残ったビールを飲み干しました。

歓談中に書いてもらった連絡先、今思えば、なぜ葉書の一枚も出さなかったのかと自分の幼さに呆れますが、当初はその地まで会いに行こうと思っていたのです。でもそんなことはすぐ実行するわけでもなく…。そして5年ほどが経ち、黄色くなったメモは捨ててしまいました。

今もお元気にお過ごしでしょうか。あの時はご馳走さまでした。そして楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございます。

いつからでしたか、食堂車もなくなりました。
あそこでよい出会いを得たこと、本当に有り難いことでした。