2009年3月27日金曜日

生活の場としての学校

ここ最近、ちょっと新しいテーマにはまっています。

学力向上が賑やかにいわれる一方で、どうして教員がしんどそうなのか、そのズレを問題にすべきではないかとかねがね思っていたことがきっかけです。学校はもちろん勉強する場所だけれど、それだけではない、ということをどういう言葉で言い表せばいよいかと考えてきました。「生活の場でもある」と言うのであれば、もっと教職員が生き生きしているはずではないか、なのにどうして…という思いが切れないのです。

昨年に書いた論文の一つに「健康的な学校づくりに向けて」とサブタイトルを入れていたことが、今になってみれば、そうした関心で細々と考えてきたのだなと自分なりに納得しています。そう、今の関心は「健康と学校」なのです。

ドイツ語圏で興味深い試みを見出すことができます。これまでの「教育問題」に留まっていないところが危なっかしいけれど、惹かれます。幸いなことに、ドイツ語も以前より随分と楽に読めるようになりました(「今頃そんなことを言っているのの」とお叱りをうけるかもしれませんが、英語以上に読めるのは嬉しいことです)から、関係資料の理解もはかどっています。

それなりにまとまりましたら、論文にてご報告しますからしばらくお待ちくださいね。この数年間に取り組んできたつもりのキーワードが一挙に繋がるようです。笑い、やりがい、エンパワーメント、清潔さ、など。「わからないことがわかる喜び」を普段以上に感じています。

2009年3月18日水曜日

これで効率的に仕事ができるの?

ある公立中学校を訪れることがあった。

とある会議のため、誰もいない職員室だったが、校長先生にお願いして少しお邪魔した(はじめ、教室を見せてほしいということで鍵を取りに行った先が職員室だったため、結果的に見せてもらうことになった)。

自分の仕事と、勤務の形態も環境も大きく違うので一概に評価はできないが、あまりの整理のなさに、目が点になったというのが正直な感想だ。

きれいに収められた机もごく一部にあるが、多くの机は少なくとも表面の半分、いちじるしい場合は8割くらいを占めるかと思われるほどにモノが溢れていて、とても仕事をする場所があるとは思われない。生徒のファイルやプリントもあるからやむを得ないのかもしれないが、それにしても混沌としすぎているように思う。冬なのになぜうちわがあるの? これだけ積み上がったら、下の分はほぼ死蔵では? と疑問がわく。

学級担任の場合は教室で仕事ができるのかもしれないが、これだけうず高くモノに埋もれていたら、向かいの人の顔を見ることは不可能だ。何のためにここに集まっているのか、その効用がきわめて疑わしい。

生徒たちに「整理・整頓」を指導しているならば、すでに矛盾しているし、そうでなくとも、忙しい毎日ならばもっと資料や情報を取り出しやすく、てきぱきと仕事ができるように環境を整備すべきではないだろうか。これでは、モノを探すだけで結構な時間がかかるように思う。

そして、職員間のコミュニケーションを良好に保つという観点が欠落しているとも感じる。何気ない会話ややりとりが情報や状況の共有を促し、「ヒヤリ・ハット」(ヒューマン・エラー)を抑止するにもかかわらず、これではせいぜい両隣と顔を合わせるのが関の山だ。こんな状況で「教職員が一致団結して」などできるのだろうか。

他の学校と比べても大きいと校長がいうこの職員室には回りにロッカーも配されているが、あまり活用されていないらしい。

あるいは、生徒がこの部屋を見て、教員を尊敬できるだろうかという素朴な疑問もわく。とくに生徒指導にしたがうなんて気持ちが起こりようもないだろう。ハロー効果のことを思い出してほしい。私の偏りがありすぎるのかもしれないが、とにかく汚いのである。

はたまた、学校の自主性・自律性というのならば、教育委員会からのあてがいぶち?、あるいは「何となく買う」のを止めて、みんなでどんな職員室にしたいか、ちゃんと話し合いをしてよい仕事のできる職員室経営について考えてみようよ(学校事務職員が牽引役、がんばれ!)。

「これでも(あるいは、こうだからこそ)いい職員室なんだよ」と誰か教えてくれませんか。わたしには、凋落しつつある学校を象徴するようにすら感じられた、とってもがっかりな日だった。学校の職員室ってどこでもこんな感じなの?

2009年3月12日木曜日

あまりに悲しい出来事

日本でも報じられたが、ドイツ、シュトットガルトの北東に20キロほど、人口27000人の小さな街、Winnendenで、「全ドイツの悲しみの日」(メルケル首相)と言われるほどの事件が起こった。

17歳の青年が昨年卒業した自分の実科学校をピストルで襲い、生徒9人、教員3人を殺害。犯人はその後、通りかかったクルマを止め、運転手を脅して街に向かい、自動車販売店で商談中の客と従業員など3人をさらに銃撃、あわせて15人もの人たちを殺した。警察との銃撃戦になり足を負傷した犯人は、最期に自ら頭部を打ち抜き死亡したのだ。

犯人は、黒い戦闘服に身を包み、9年生と10年生のクラスを襲った。生徒のうち8人、教員は全員が女性で、多くは頭部を撃たれた。殺された中には、まだ手にペンを持ったままの生徒もいたという。

女性を狙ったとの見方もあるが、大きな謎は、この犯人を知る人がコミュニケーションのある好青年、あるいは、おとなしく控えめな男性だと言っていることだ。
コンピュータゲームの影響との意見もあるが、一緒に住む両親を含め、ごく普通の家族と見られており、どうしてこんな惨事が起こったのか、まだ誰も説明できない状況にある。

学校での危機管理のあり方や武器所持のあり方にも議論は進みそうだが、何よりも悲しくて仕方がない。事件の現場となった街は、以前に私が住んだ町と15キロくらいしか離れておらず、今も定期的に訪れているSchwabenという地域に入るからだ。その街を訪れたことはないが、街の雰囲気は何となくわかる。近くに住む友人や知り合いも大きなショックを受けていることと思う。

亡くなった方々の冥福を心からお祈りするともに、残された家族や友人の方々にお悔やみを申し上げたい。本当に残念で悲しいことが起こった。


2009年3月7日土曜日

品のない講演

ある審議会のメンバーいう人の話、きいてん。

新しい学習指導要領のことやったけど、驚いたわあ。だって、「要は昔の先生、昔の学校に、ってことで、新しいことはないんです」って言うんやから。

せやったら、昔みたいに、暴行しても
体罰やいうて平気やった先生や、成績の説明をせなあかんなんて露ほども考えへんかった学校に戻ってかまへんってことかあ。えらいこと言うなあ。

学校にそう言うんやったら、万全のサポートで学校を守ってくれるんやろね。「モンスター」なんて許されへんし、外部評価なんて必要ない、情報公開なんかも何のこっちゃ、って感じやからね。学校が努力と信念に基づいてしっかり子どもの育ちのために頑張ればええんやって。もちろん、「個に応じた指導」とか「心のケア」なんてないわ。そんな言葉なかったしね。

いまはもう昔に戻れへんから、あれこれが問題になってんのに、無理を承知で「昔に」っていう話なんやろか。昔のつもりでやってたら上手くいかへんようになったから、教育改革ってうるさい話してきたんとちゃうのん。言うてはることが論理的やないから理解できひんで。まず話する自分の頭をようせんと。

それにしてもこの御仁、話に実に品があらへん。ちょっと前の流行言葉で言うたら、まったく品格が欠けとる。

「酒が呑めるからって、…(って職)に就いた人がいるんです」とか、「単細胞の…」とか、聞いてる方が恥ずかしくなるようなことをどんどん仰る。旅の恥はかき捨て、いうことやないやろね。たくさん人いたけど、ワシだけやろか、自分が毒されている感覚にとらわれたで。う-、ほんまに気分悪くなったわ。こんだけ人から元気を奪う話って、何やねん、ほんまに。

人間的成長て何度も言うてはったけど、人間、長いこと生きてたら成長するっちゅう訳ではないことがようわかる例やった。「誰とは言わんが…」と言いながら、わかる人にはわかる言い方もする。言いたいんやったらちゃんと言わな。言わへんのやったら言わんとき。どっちやねん。ほんま姑息やなあ。

敬老の日もある日本なんやから、年とるほど慎み深ならなあかん。回りが困るやんか。じゅうぶん年とってんのに、まだ「あの人、えらいなあ」って思われたいんやね。自分にそんなに自信ないんかな。「もっとほしい」っちゅう飢餓地獄に堕ちんように、ワシはちょびっとずつ頑張りながら年とるで、って思わされたわ。まさに反面教師やなあ。

それにしても、こんな感じで公教育が決まってんのかなあ。それって最初から失敗してんのとちゃう?