2009年12月11日金曜日

でっちあげだった

NHKスペシャル、真珠湾の謎-悲劇の特殊潜航艇、を見た。

子ども時代、いっとき太平洋戦争に強く興味を持っていて、この特殊潜行艇による特別攻撃、そして亡くなった「九軍神」の報道ニュースを本で読んだことがある。航空部隊とは別に、真珠湾に潜入した部隊がアメリカの戦艦アリゾナを撃沈したというものだ。

その日から68年、関係者が残した手記に「でっちあげ」とあることをNHK取材クルーが発見。まさに驚くべき事実である。

捕虜になった一人を除いた9人の死を利用して、戦意高揚を図った大本営発表、これに心躍らされて軍人を志願した数多くの少年。絵に描いたようなストーリーだが、これを煽った者の責任はあやふやなままだ。

勢いのよいことを言うためには確かな証拠が要る。証拠がないにもかかわらず言いたいときは博打になる。「12人の怒れる男」に証人として立つ老人も同じだっただろう。裁判所で衆人が注目する中、思わず大胆な発言をしてしまった。

professor は前に出て発言する人の意味でもある。注目されることを言いたいのは山々だが、後でほおかむりをせずとも済むようなものを、と大いに心したい。

2009年11月29日日曜日

みんなは働かない「働きハチ」

昨日のニュースを、興味深く読んだ。

存在重要「怠けアリ」…「働きアリ」だけだと集団破滅

 働きアリを「よく働くアリ」「ほとんど働かないアリ」に分けて、それぞれの集団(コロニー)を作り直しても、一定の割合で「働き者」「怠け者」に分かれることが北海道大学の長谷川英祐准教授(進化生物学)らの研究でわかった。
 誰も働かなくなる時間を減らし、安定した労働力を保つ集団維持の戦略と見られる。茨城県つくば市で開かれている日本動物行動学会で28日発表された。
 長谷川さんらは、日本全国にいる「シワクシケアリ」の八つの集団に、1匹ずつ印をつけて幼虫の世話、巣の修復など集団に貢献する「仕事」をどのくらいこなしたか、1か月間行動を観察。そのうち「よく働くアリ」「ほとんど働かないアリ」を取り出して、それぞれの集団を作り直した。その結果、どちらも元の集団同様「よく働くアリ」「ほとんど働かないアリ」に、ほぼ同じ割合で分かれた。
 働きアリも疲れて休息するが、「働かないアリ」がいるほうが、集団全体で「誰も仕事をしなくなる時間」が減ることがコンピューターの模擬実験でわかった。長谷川さんは「幼虫や卵の世話は少しでも中断すると集団全体の死につながる。そのため、わざわざ働き方に差がでるような仕組みをとっているのではないか」と話している。(2009年11月28日 読売新聞)

ゆらぎ、あるいは、ゆとり、は文字通り曖昧なので、近代主義者からの標的になりやすい。しかし、「わかる」「見える」と思うことが、実は浅はかなこと。むしろ、「わからない」と思えることの強さを知るべきなのだろうと改めて思わされる。

「サボっている」とは聞えが悪いが、いつもみんなが「やる気」になっている訳ではないことこそ、むしろ「健全」な状態であること、何かに必死になっているときは見逃していることも多いことを再度、想起すべきではないだろうか。

教職大学院で学校評価に関する授業を担当しているが、評価のための評価になっている例をたくさん知って、報告者と同じようにくたびれることが多い。

「がんばること」自体は尊いのだろうが、それ自身を目的とするようになってはまったく本末転倒だろう。「働きながら、いかに怠けるか」を実践するために、天邪鬼になれるセンスがとても大切ではないだろうか、と怠け者は強く思うのだ。

2009年11月3日火曜日

「戦略」はどこまで作れるか

新しい政権は「国家戦略局」という部署を作ったが、まだ本格的に始動していないという問題とは別に、はたして国家レベルの戦略など、どれほど可能なのか、大いに疑問だ。

比較的短い時間で変化する周りの環境に適応した結果、あるいは偶然に生じたことをきっかけに、ある方向へと展開することはままあるだろう。しかし、これから起こることを予想して、それに応じた策をつもり、適合させていくなどということは、どれほどの水準でできると考えられるだろうか。

戦略と銘打つほどならば、5年から10年、あるいは「教育は国家百年の計」とも言う人に倣うならば、一世紀を見越した策を立てることになるが、かつての「5ヵ年計画」ですらなかなかうまくいかなかったのに、当時をはるかに越える環境変化のスピードを考えれば、ほとんど無理と踏むことが妥当なように思う。

これは何もくだんの戦略局に限ったことではない。どんなレベルでも組織についても、戦略といえば格好よく思う御仁には便利な言葉だろうが、後からの理屈づけはいかがかと思う。「こうして戦略が展開していったのです」では駄目。「こうして展開していくでしょう、ってほら5年前に言ってたでしょう」と語れなければ…。本当にそんな自信ありますか。

2009年10月21日水曜日

「過去のデータはすべて役に立たない」

低価格路線を中心に激戦が続く、小売業。百貨店まで巻き込んで客の争奪戦を繰り広げているという。

「これまでやったことは…」と部下が答えかけたときの上司の答がこれだ。あたらしい発想と手法でやらなければ客は得られないと。

開発型ではない、「後付け」研究はみな過去のことを解釈し、モデルにしたがい整理することに意味があるという態度を取ってきた。これにこの台詞を浴びたら、けっこう厳しいなあ。

政権交代に伴って研究環境も短い間隔で変わる可能性が高いこと、これを踏まえて研究に臨むべきと思わされている。

2009年10月14日水曜日

Chire ワイン

拙宅はもっぱらワイン、とはいえ、特段凝っているわけではなく、美味しいと思えればそれでいい、というお気楽派です。

フランスワインに美味しいのが多いのは認めますが、コストパフォーマンスを考えれば、いわゆる第三世界のものがとても良く思います。アルゼンチンワインなど、なかなか美味ですよ。

さて、先日ある量販店で見つけました。「Chireワイン」の札、ちゃんと印刷、ラミネートもされているものでした。あれと思ってボトルを見ると、やはりChile。日本人には l と r の区別が難しいですね。

買って帰りましたが、なかなか美味い。お得でした。

2009年9月28日月曜日

「相撲は神事でもある。単なるスポーツとしては考えてほしくない」

大相撲の秋場所千秋楽で優勝した朝青龍が、土俵でガッツポーズをとったことが問題となり、親方らが謝罪したという。

標題はある審議委員の言葉、とてもおもしろいなあと思う。

スポーツとは非日常という意味。神事もまあそういうところがあるから、神事かスポーツかの違いを議論しても仕方ない。だから、土俵で感情を露わにすることの是非について、意見が異なる状況にあるという理解でよいのではないだろうか。

ところ変わってマレーシアでは、ズボンをはいてレストランで食事をしていた女性が、わいせつ罪で逮捕された。脚の線が強調される服装はイスラムの教えに反するそうだ。

何だかんだと偉そうぶる口調の輩、自分の規範がナンボのもんかと考えてみい、と言いたいな。

まあいずれもええ加減なもんや、と笑い飛ばせればええんやけど、「これは特別や」なんて選民思想にはまったら、どこぞの国の「神風精神」がまたぞろ、ちゅうことやで。おっかないこっちゃ。

2009年9月27日日曜日

気づかせ屋

NHKスペシャル、ONの時代の2回目を見た。

長島さんのリハビリの様子に感じるところもあったが、我が意を得たりと思ったのは、王さんが福岡ダイエーホークス時代を振り返って、「監督やコーチは気づかせ屋」と話したくだりだ。

変わるには本人がそう思うしかない。回りの人間ができることは、「変わらなきゃ」と本人が思えるように刺激を与えることだ、という私の持論にぴったりくる発言だった。

巷のリーダーシップ論はいまなお、強力な指導者がみんなを導くという構図から離れず。いつでもリーダー待望論が現れかねない。これに対して、気づかせるというのは、あくまでも本人を中心に置いた考え方、周りは、メインではなくサブに過ぎない。しかし、とても重要なサブだ。

成人に対する教育だけでなく、あまねく人に影響を及ぼすとは、自分がそう思えるように環境を整えること、学校の教職員もまさにこの構図ではないだろうか。

気づくことのできる「ゆとり」を持たせるように、持てるように。忙しいとはまさに心を亡くすことですぞ。

2009年9月23日水曜日

公衆での居眠り

みなさま、またまたすっかりご無沙汰です。何かとあたふたしており、落ち着きません。

さて、みなさんは電車の中で居眠りをしますか。日本では日ごろ見慣れたともいえる光景、これは万国共通のこととは言えない、と思っていました。

前の大学で「大学における教授方法」の共同研究をした際、学生の授業中の居眠りの話から、語学の同僚から、フランスの学生で居眠りしているのを見たことがない、と聴き、そういえばドイツでも大学あるいは電車のなかで眠る人を見たことがないなあと思っていたから。ヨーロッパの人はおしなべてそうなのかしらん、と何となく感じていたのです。

先日、京都の地下鉄で白人の女性二人が目を瞑っているところを見ました。眠っているかどうかまではわかりませんが、目を閉じているだけでも珍しいと思うわたしにはとても新鮮でしたね。

「朱に交われば…」のように、周りの行動パターンに染まってしまうのかしら。

「なぜ公衆の面前で居眠りできるのか/できないのか」…おもしろいテーマだと思われませんか。

2009年9月6日日曜日

生まれ変わる間隔としての暦

NHKで、式年遷宮にまつわるドキュメントを観た。

伊勢神宮で行われる、20「年に一回の行事で神殿を移す行事ということは知っていたが、神宝という神に供えられる刀や馬の飾りといったものまで新たに作り直されるとは全く知らず。これらもすべて20年に1度新たに変わるのだ。

多くの神宝のなか、刀を納める方のことばが印象に残った。長野に住む鍛冶を務めるこの方は、親でもある先代からこの伊勢神宮の仕事を受け継いだが、式年遷宮を機に新しく刀を納める過程で、清新の気を得る、つまり生まれ変わる気持ちになると言われたことだ。

非言語コミュニケーションのうち、時間に注目すれば、われわれは自分の暦をどのように刻んでいるのかを取り上げることができる。たとえば、1年や1日をサイクルにしている人は多いだろう。

伊勢神宮で20年を単位に時間が流れているとすると、それはどれほどの長さなのか。物心ついてから経験できる20年の間隔はせいぜい3回、この3回に自分の物語を成就させるものと見ることもできるだろう。

世に忙しい、余裕がないとよく聞く。確かにそうなのだろうが、だからこそたずねたい。あなたの時間のリズムあるいはサイクルはどのようだろうかと。 自分の持ちうる時間はどのように組み立てられており、今どの辺りまでやってきたのかと。

人は太陽と死を見つめることができない、とある人は述べたそうだが、知らないうちに自分が刻んでいる時間の間隔、そして感覚を問い直すことは、死を見つめることでもある。それは急ぐ人生といえども有意義な作業かと思う。

2009年9月3日木曜日

抑えられない感情の表出

ようやく秋風が流れはじめ、過ごしやすくなってきましたね。

さて、コミュニケーションについて学びたいとお話していましたが、この中でも、狭義の言葉を必ずしも介さないコミュニケーション、非言語的なコミュニケーションを興味深く思っています。

先日の電車で向こう正面に座っていた女性。なぜかニコニコと笑顔が止みません。楽しかったことを思い出しているのかな、それともこれから誰かと会うのかな。ひとさまの笑顔に出会うと、まったく無関係な自分なのに、なぜかこちらも楽しくなりますね。感染するというやつです。

こうした感情の表出は狙ってやるとは言いがたく、否が応でもそうなってしまうという面がありますね。だから、他者はその様子をまさにそのとおりだと受け止める。つまり、非言語的メッセージの嘘はなかなかつけないということです。

そして、どうしてかはわからないけれど、楽しげな様子は周りの人もおおよそ楽しい気持ちにしてくれます。反対の人もたまにいますが。

この二つを足し算しましょう。はい、周りを楽しくするには、自分で楽しいな、幸せだなと「本当に」思えることが大切なようです。

そうなんや。自分を楽しくすることが、他者にもいいってことなんやね。

2009年8月30日日曜日

詐称はなくならず

昭和女子大准教授経歴詐称で申請取り下げ
 昭和女子大など都内の五つの女子大が、来年度の開設を目指していた「共同教職大学院」の設置認可申請を取り下げたことが22日、分かった。文部科学省への提出書類に昭和女子大准教授だった男性(61)が虚偽の経歴を記載していたことが発覚したためで、同大は男性を懲戒解雇処分にした。
 共同教職大学院の教員に同大は3人を申請しており、この男性はトップの教職研究科長に就任する予定だった。 (中略)  昭和女子大によると、准教授だった男性の懲戒解雇は今月16日付で、申請取り下げは21日付。文科省への提出書類に記載されていた「岐阜県教育委員会指導主事(97年~)」「同研修課長・教育センター第2研修部長(02年~)」「同県立高校長(03年~)」などの経歴がいずれも虚偽だった。男性は岐阜県立高教諭の経験はあったが、管理職を務めたことはなく、文科省の指摘を受けて大学側が確認したという。 04年に助教授として採用した際も男性は虚偽の経歴を伝えていたが、大学側は気付かなかったという。(2009年7月23日、毎日新聞)
-----------------

と報じられて一ケ月、くだんの人物は学歴も詐称していたことが判明した。

…元准教授は、職歴の「大学の非常勤講師」も虚偽だったことが判明。岐阜県教委でも男性が高校教諭時代に東大博士課程を修了したとする記録について改めて東大に照会したところ、「事実ではない」と否定されたという。(2009年8月27日、読売新聞)
-------------

飲み屋の与太話ならともかく、職に絡むこの手の詐称は深刻な問題だ。逐一調べないこれまでの「紳士協定」に乗じた悪質なものと言える。

大学がスタッフをリクルートすることは、最大の経営資源の調達にあたる。自分たちの求める人物が得られるのかどうか、しっかりとしたフィルターを通すことが説明責任の上でもいっそう求められるだろう。

ちなみに、私の今の職場は、けっこう厳密だ。
高校、大学の卒業証明書、大学院の学位取得証明書と在籍証明書。研究論文については、業績一覧に挙げたものすべてを提示。そうそう、健康診断書も求められたなあ。

一応そのとおりなので、出すことは構わないのだけれど、高校に手紙を書いたり、手数料を郵便為替で払ってくれと言われたりの手間が大変だった。いやはや。

でも、こんな手続きがとても大切ということやね。

エコノミック・ポイントだったのか

電化量販店に出かけた。

商品のあまりの多さに、選ぶのに難儀したが、どうにか決まる。

すると店員さんが説明してくれた。「エコポイント」。
省エネやら何やらの基準を超えるモノを買うとこのポイントがつき、先々、商品券やらに交換してくれるというらしい。テレビでなんやかんやと報じていたが、さっぱり関心なく、ようやく話を聞いた。

な~んや、たくさん買うたら、また何か買えるもんくれるで、という話やったんか。
どこがエコロジカルなんや、これは。

おまけに申請に必要な書類をお店が準備してくれてたから、えらい時間がかかってしまった。 お店の負担も大きなもんやろうな。

自分が妙案を思いつくとは言えんけど、こりゃあかんで。ポイントつけたるさかい、いっぱい買うてや、って、どこの商店街でもやってるもん。

その安直さはさておくとしても、これを環境負荷の低い「エコ」やなんて…。

詐欺まがいは、ほんにいかんぜよ。

2009年8月20日木曜日

風景と対話する

NHK教育番組で、福井県に住む100歳の画家、豊田三郎さんのドキュメントを観た。

70歳を越えてから、青年からの願い、画家になりたいということを実現された方で、今も毎日、絵を描きに出かけられている。その中に、印象深い場面が数多くあった。

その一つ。絵を描こうとする対象に向かって、描こうとするその度に頭を垂れるということ、描かせてもらう、そして風景である相手と対話するのだとおっしゃる。

もう一つ。遊びで描いてるんじゃない、命を懸けて描いてるんだ、と言われる。豊田さんがもっとよく描きたいと思われる杉の木は、彼の父が植林に精力をつくしたものだという。

前者からは、相手をわかろうとすることは相手と対話することに他ならないこと、つまり、自分を現さずに相手を理解できるはずもないということ、なぜなら、相手はそういう自分に見せてくれるものがある(あるいは、ない)からだ。

後者からは、人生の最後に局面に自分が臨むべきところに戻るということだろうか、と思わされた。

自分が40歳代後半を過ごす今、長く生きるほどに、学ぶことの多いこと、謙虚であるべきことを強く感じさせられる。学ぶ意欲とは相手や事物に対する関心が高いことの証し、それは「わからない」ということなのだろう。「わからないことを自分は知っている」と述べたソクラテスの言葉はここにも当てはまる。

そして人が還るべきところ、これままだとんと見えない。自分にはこれからが修行の始まりということだろうか。

みなさんの人生の季節は、いま何月ころですか。わたしは、そうですね、年はくってもまだまだ若輩、5月の気分。わからなさを楽しみながら、大いに学びたいと思っています。

2009年8月13日木曜日

いつもの台詞でごめんなさい、暑いわあ…。

みなさま、元気にしてはりますか。ここ関西はほんまに暑いですわ。

きょうは夕方に少し雨が降ってくれたので幾分、しのぎやすくなったけど、今の室温はほぼ34℃、汗が止まりまへん。汗をぬぐうタオルもこれ何本目かというくらい、お風呂に入ってもこれじゃ、わやです。

ゆうてるうちに秋風が…とも思いつつ、いましばらくはこのままやろね。何を我慢してんのか、エアコンなしやなんて。

さて、7月下旬からの研修の「ロード」、ようやく一息つきました。富山、広島、静岡、そして京都、大阪、行く先で良くしていただき、とても楽しく過ごせましたよ。お世話くださった皆さま、本当にありがとうございました(アフターファイブも実に楽しかったです。飲み疲れするほどに…)。

講師をさせてもらい嬉しいことは、新しく多くの方と出会えることが一番ですが、くわえて必ずといっていいくらい、自分が新たに学ぶこと、気づけることのある点です。創発ともいうべき、ふわっとアイディアが湧き上がる瞬間は、何事にも替えがたいもので、次の論文の大きなヒントになります。この醍醐味は、ライブならではの研修あるいは講演だからですね。そんな機会を得られること、まったくありがたい話です。

かくして、この間に論文を一つ、ほぼ完成させました。教員の精神的健康に関するものです。ただし、活字になるのは早くて来年の3月、興味のある方、しばしお待ちを。おもしろい結果が出ましたよ(最近は、大学レポジとリーが充実したので、最近の論文はほぼネット上で読むことができます)。

まずはこの暑さに負けず、しっかり眠って、より励みたいと思っています。まだ論文を書く予定ですから。残っている講習もぐあんばります。

みなさんのこの夏の目標はどんなことですか。

2009年8月5日水曜日

飲み疲れ?

みなさま、ご無沙汰いたしました。

この間、あちこちでの教員研修に連日出向いており、青色吐息の状態です。

いずこでも歓迎くださり、ありがたいことこの上なしですが、それが意志薄弱な私には要注意でもあるのです。

つまり、仕事をぶじ終えて、アフターファイブと出かけます。おおむね喜んでもらえたのでは…、あるいは参加者にまずまずの意味ある時間を提供できたのでは…と自画自賛してしまうと、ほっとするのと嬉しさが相まって、ついついお酒が進むということです。ええい格好悪い。

関西に帰って嬉しいことの一つは、ほとんど車に乗らなくなり、飲酒運転の危険から完全に逃れることができたことでしょう。前に住んでいたところでは、どうしても車が必要で、そのために飲んではならぬと小さな葛藤がありましたから。

さて、先日お邪魔した日本海側のとある県の教育センターでは、実に実に歓待いただきました。昼間の仕事をどうにか終えたあと、夕方以降の食事で大いに話が盛り上がったことです。地の幸に美酒ゆえなことはもちろんですが、かくも楽しい時間を過ごせる人たちと出会えたこと、大変ありがたく思います。

とまれ、仕事でくたびれる→嬉しくて飲みすぎる→いっそうくたびれる、というサイクルに突入しています。お盆まであと一息、体を(少しは)労わって、あと予定されているいくつかの場を乗り切りたいと思います。

梅雨もあけて、いよいよ夏が本番。みなさまもくれぐれもご自愛くださいますよう。

2009年7月26日日曜日

あたりまえにことに向かう

塚越寛『リストラなしの「年輪経営」』を読んでいる。

部分的には疑問もあるが、おおよそ共感できる。その一つは、社員が幸せになる会社づくり、という基本ポリシーであり、これを実現するためにも、「神は細部に宿る」というべきか、「そんな小さなことに…」こだわって大切にことを進める、という下りだ。

何が大事か小事かはわからない。小さいと思われることが大事故につながることもある(これは、ハインリッヒの法則にも合致している)。だから、当たり前のことを懸命に。なにごとも丁寧に、ものやことを大切に。わかっていたつもりだが、浸みる文面だった。

そんなこともあって、けさ私鉄を降りようとしたとき、車両の床に小さな釘が落ちているのが目に入った。拾おうかなどうしようかなと迷ったけれど、先の本の話が思い出されたので、つまみあげ、この列車の乗客の出入りを確認していた車掌さんに差し出した。

車掌さんは、帽子をとってお礼を述べたあと、「座席の上でしたか」と確認された。私の返事を待って、彼は列車を発車させていった。実にすがすがしいシーンだった。

小さなことは取るに足らないかもしれない。でも、それが大事な一場面だったりすることは、後になればよくわかる。

けっして目立たないかもしれないけれど、「プロの味わい」を感じさせられた一日だった。先の本は強調する、「経営とは遠きをはかること」。これを座右に置きながら、毎日を過ごしたいと思う。評価や競争がなくとも、「いい仕事」ができることの理由を得て、自信を持って自分のやるべきことに向かいたい。

2009年7月22日水曜日

その方法はないだろう

本当にびっくりした。

---------------
職場にクレーム「増えた」4割、60代が頻繁

「職場で苦情が増えている」と感じる人は4割、多くの人は日常生活で嫌な思いを4~5回したら1回は苦情を言う――。

 「となりのクレーマー」(中央公論新社)などの著書がある苦情・クレーム対応アドバイザーの関根眞一さん(58)が実施したアンケート調査から、そんな結果が出た。
 昨年5月以降、関根さんが全国各地で講演を行った際、参加した人に調査への協力を求め、計5059人から回答を得た。教育、行政、病院、流通などの業種別や、世代・男女別で分析した。(中略)

関根さんはアンケート結果を「日本苦情白書」としてまとめ、刊行する。(2009年7月22日21時57分 読売新聞)
---------------

報道する側がまさかわかっていないことはないだろうから、とすれば、わかった上でこうしたニュースを流していることになる。

「クレーマー」問題に関心がある人に聞けば、この問題が増えたと答える人が多いことは火を見るより明らか。どうしてこんな結果が記事になるのだろう。 数字が一人歩きするのを期待してるってこと?

しかもこの御仁、調査結果を本にするという。なんと無茶なことをするんだ。 ぜんぜん代表性ないよ。あんまりだ。

調査の一番はサンプリング。誰に聞くかを決めることは、何を主張するかの大前提。講演に入ったついでに(失礼!)調べようなんて、かなり安直(という私も、教員研修に関する評価を受講者からたくさん集めたけれど、これは属性に即したものだから、認めてもらえるかしらん)。

今年の前半で、わたしが一番学習したこと。

マスメディアはこうして嘘をつく。騙されてはいけませんぞ。

2009年7月19日日曜日

夏休みの過ごし方

先週末から世の子どもたちは夏休みとニュースを聞きながら、「大学はあと2週間ほど授業があるんだけど」とボヤキが出ます。

昔の大学生にはイメージがつかないかもしれませんが、大学はかくも真面目、本当なのです(四半世紀前の大学ならば、授業が本格的に始まるのは5月の連休明け、7月前半にはおしまいというものが少なくなかったので、しっかり勉強したのは6月くらいでしたな。しかも通年の授業が多かったから、試験もレポートもなし。これって、私だけ?)

わたしの担当では8月3日が最後。今年はインフルエンザ感染の影響もあり、補講日を使っても追いつかないほどで、来週も本来とは違う時間帯、夜8時から90分間、授業をします。学生もよくがんばっていると思いますが。「納税者に対する責任」をいっそう感じるようになりましたからね。

さて、小学校の終業式で校長先生が「一日一日の目標を立てて…」と話すシーンが報じられていましたが、休みなのだから、そこまで気張らなくても、と強く思います。メリハリ、オンオフというのならば、休みは休み、大いにダラダラしてほしいものです。

たとえば、朝の会、掃除や給食といった意図せざる教育効果を持ちうる「隠れたカリキュラム」の指摘は数多くありますが、長期休みの過ごし方もその一つかもしれません。

カリキュラムがない時期の「カリキュラム」があるのだとすれば、何とも皮肉なことであります。みんな、よく遊んでね。

2009年7月18日土曜日

ほんに暑うおす

ねこフリークのみなさま、お元気ですか。
こちらは暑さゆえ、ダウン寸前です。これから本格的な夏だというのに早くも敗北宣言かいっ。
今年9歳になったもなかも同様、すっかり参っています。
ねこの行動で関心するのは、けっして退屈しない(ように見える)こと。これに対して人間は、暑かろうと寒かろうと、なんじゃかんじゃやりたがるもんね。ど~んと、「何もせん」と構えられたらいいのに、慌しいことです。
とまれ、みんなどうにか元気にしております。はい。

2009年7月14日火曜日

失礼!


大学生の本分とは何か、と考えさせられることが多いこの頃だが、単純な掲載ミス、でも思わず笑ってしまった(はしたなくてごめんなさい。でも、おかしかったので)。

infoseek のページ(http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_rits__20090714_7/)2009.7.14 22:50閲覧。
アメフト部の学生のAV出演を問題とする記事だが、「30年前も…大学生AV出演の実態 」はさすがにないでしょう。3年前ね。ちょっと安心。

2009年7月13日月曜日

暑いだけです。


みなさま、

梅雨らしい、おっ、ちょっと涼しめやんという日々は遠くに去り、本格的な夏の前哨戦のような毎日がやってきました。ほんまに暑いわあ。

きょうの拙宅は35℃。絶え間なく汗が流れて、なかなかいい感じです。

いうまでもなく、ネコたちは半分、夏眠(冬眠ではない!)状態で、ぐったり。あちらこちらで、打ち果てています(生きとるか、っちゅう感じですね)。
ガタイは違うものの、暑さに参っているのは、犬のMaiも似たような感じです。

この仔、この5月で15歳を迎えましたが、幸いなことにいたって元気。ネコたちへの威嚇も忘れていません。よく食べて、よく歩きます。

なぜか舌を出して眠るMai、噛んだりしないのかなとちょっと心配ですが…。
本当に急に暑くなりました。みなさまもくれぐれもご自愛のほどを。

2009年7月12日日曜日

暑くてたまりまへん


いつぞやお伝えししましたが、拙宅にはエアコンというものがありません。汗をかかないことがあまり好きではないのと、けちんぼなのが理由です。
かくして今日のように気温が上がると辛いことになります。現在の室温は34℃、まあまあの暑さです。
ご覧のように、この秋に11歳を迎える年長のきなこもバテ気味。これからの長い夏、みんな、ぐわんばろう。

怒って直せることはたいしたことではない。

きょうの一言。

「がっちりマンデ-」という朝のテレビ番組があるが、今回登場したのは、カインズという会社の社長である土屋氏。

田舎ほど儲かるというホームセンターを経営されている。私も前に住んでいたところでお世話になった。庭土、草花、芝刈り機の刃から、犬ねこのエサまで(物理的に)大きな買い物をよくしたものだ。

さて、同氏の日課である店舗回り。一店長に対する社長の物腰の柔らかさにテレビ取材側が「怒ったりしないんですか」と問うたときの返事がこれ。

「言うべきときには言う」というのが結論だろうけれど、怒って直させるよりも、気づいて自ら改めるように方向づけること-リーダーシップの要諦と思う。

気づきにくいことに気づいてもらえるような観点を示すこと、あるいは「どうだろうか」と問いを持てるような気持ちの生まれるような雰囲気づくりをすること、が他者に働きかける人のなすべきことだろう。

相手を直接に、短期に変えようとして、あるいは自分の小さなプライドを守ろうとして相手に怒りをぶちまけないこと、一応「人の上に立つ」べき教員は、いっそう自戒しなければと感じる。

2009年7月11日土曜日

「大学生としての本分」

 大阪経済大は10日、ラグビー部員3人が大麻取締法違反容疑で逮捕されたほか、部員2人がアダルトビデオに出演していたことが分かったとして、同部を無期限活動停止にしたと発表した。
 大学によると、部員2人は「お金がほしくて出た」と話し、ビデオ出演を認めているという。大学は、学生の本分に反したとして2人を厳重注意。ほかにも、卒業した元部員2人が在学中に出演していたことが確認されたという。
 重森曉学長は「学生3人が逮捕され、社会の皆さまにご迷惑をかけたことをおわびしたい。ビデオ出演は残念というか遺憾で、良識を欠いたあってはならない行為だ」と話した。(朝日新聞、2009.07.11)
--------------------------------
大学の大衆化もここまで来たかと思わされる。

学生のアダルトビデオへの出演。確かに違法じゃないけれど…。格好悪いんじゃと思うのは、古い世代の感覚ゆえ?

別の見方もできるだろう。それだけ出演者が求められるのは、世の中の需要がある証拠。「世のため」になることを合法的にやるのなら、何ら咎められることはない、と。

その玉虫色的な決着が、厳重注意に留まらざるを得ないあたりに現れている。「いけない」とまでは言えないけど、気を付けてね、というくらいではないか。正面切って「許されない」という御仁はいるだろうか(非難するあなた、アダルトビデオを見たことはないでしょうね)。

これからの大学生らしさとは? 18歳人口が長期的に減少することが明らかな今、大学の悩みはいっそう深まることだろう。いやはや。

2009年7月9日木曜日

もなかは麺派



ねこフリークのみなさま、こんにちは。

夏といえばそうめん。そして素麺といえば、拙宅では「もなか」が連想ゲームの正解です。
なぜかこの仔、大の麺派。ちゅるちゅると器用に食べます。幼い頃の飢えた記憶に由来するのでしょうか。学生がお弁当などの余った麺をやってくれていたとか…。

あっという間になくなるので、片や食べている人間の忙しいこと(テーブルの上にネコを上げるんじゃない、って?残念ながら、ネコばか宅では通用しないルールですね(^^;))。冗談ではなく、この仔、20本くらいは楽に食べますよ。ほんまに好きやねえ…。

みなさんのネコたちは何が好物ですか。

暑うなってきたわ


どれほど夏めいてきたかは、我が家のネコたちを見ていればよくわかります。

このあずきくんの気だるそうな様子からおわかりでしょう(年中こんな感じだという説もあるが…)。

もうちょっとしたら、いよいよ本格的な夏の到来です。

関西のこの季節は、梅雨の湿気とこの暑さがセット。せやから、「うっとうしい天気やねえ」て言い合うんよ。

授業計画がくるってしまう…

新型インフルエンザの発生に伴う休校が、再び行われることになりました。5月に続き2回目です。

公衆衛生学的に吟味された上での措置でしょうからやむを得ないのですが、授業担当としてはいたく困ります。

とくに月曜日、誰の愚策か知らねど、「ハッピーマンデー」でただでも月曜日の休みが多い中、この曜日の授業は大きな打撃を受けています。どうしたものかなあ。すでに8月まで授業をやることを決めていますが、それでもまだ予定まで進みません。ほんま、どないせえってゆうねん。

返す返す昔は大らかでした。電子メールによる一斉配信など夢想だにできず、とにかく大学に行って休講通知が出ているかを確かめ、あるいは教室で20分くらいだったか待って先生が来なければ「休講なんだ」とつぶやいてそれで終わっていた30年近く前。それでも「大学生の学力低下」と語られることはありませんでした。

授業シラバスも、授業評価もなく、まったくいい加減なものでしたが、その分、学生は自主ゼミを開いたり、下手な議論をしたりと勝手なこともできたように思います。

あまり教育的にならないこと、授業も「15回厳守」などと制度化せず、多少の(これが難しいのだけれど)ハンドルの遊びを持つこと、こうした向き合い方は実は大切な知恵だと思うのですが、いかがでしょうか。「品質保証国家」のもとでは、反国民的発想なのだけれど。

2009年7月8日水曜日

そんな宣伝文句でなくとも…

オープンキャンパスが目白押しのこのシーズン、電車にも大学の広告は多い。

光沢のある紙を使って人目を引くもの、かわいいマスコットを強調するもの、オープンキャンパスでは学生食堂でランチサービス、遠方からの参加には交通費補助と、あの手この手の宣伝がいっぱい。

その中で、とりあえずはこれが一番かな。「すっげええ」と大学を訪れた高校生の声を載せた(想定した?)もの。 大学らしくてすごいらしい…。

個人的には、こうした感想をもらす高校生やこんな台詞を文字にして載せる大学を、あまりいいとは思わないのだけれど…。

みなさんの見た大学案内で、おもしろいものはありましたか?

生徒という目線から離れてみる

若者の自動車離れの影響か、自動車教習所に通う人が減っているとNHKニュースで見た。


限られた層をつかまえるべく、各地の教習所は工夫をこらしている。合宿施設の大幅な改修とホテル並の対応、雨のときには指導する教員が受講者に傘を差して車までエスコートというサービスぶりだ。


そこでの会社幹部の話が興味深かった。曰く、生徒という見方をするとどうしても「上から」という態度になりがちだが、お客さまと捉えることによって接し方も変わる、と。


わたしが捉えるところの「教育的まなざし」はまさにここにも当てはまる。黙っていても、自分が相手をどのように見ているのか、そしてそれが相手にどのように受け止められるのか、こうした視線のやりとりが非言語的な部分で対人関係を形作るということだろう。


よって、学校で働く教員も子どもをいかにつかむか、理解するか、を論じると同時に、そのように掴もうとする自分が相手にどんな表情あるいは雰囲気を伝えることになっているか、それが相手に何を引き起こすことになりやすいか、についても考えることが大切である。ちょうど、社会調査の際に戒められるように、調査しようとすること自体が相手に影響を及ぼす点が、教育実践についても同じく踏まえられなければならない。


モノにではなく人に働きかける教育実践の特性は、相手の持つ曖昧さや偶有性から導かれるだけではない。それは、実践しようとする者が意識的・無意識的に注いでしまう眼差しなどの非言語的メッセージが、主に言語的に表現されるメッセージと非整合的なことが相手に気づかれてしまうことがあるゆえに、直線的に実践が伝わらないという不安定さから来るのだ。この点で、実践には「ほどほど」に臨むことが、かえって効果的たりうるという逆説が成立しうる。


教員のふるまいと教育・学習活動、その場としての学校-新しく気づけることはまだまだありそうだ。

2009年7月7日火曜日

ねこは外に出さないでね

富山県の中学生が、ねこ撃退の装置を発明、特許をとったとのこと。
-----------------------------
 光を反射するペットボトル製プロペラでミカンのにおいを拡散させて野良猫を追い払う仕組みで、猫が嫌いとされる身の回りの物を活用しているのが特徴だ。
 装置は「ランにゃウェイ2」と名付けられた。プラスチック製の台(縦20センチ、横30センチ)に猫が乗ると、重さで台が傾いて糸が引かれ、フィルムケースも傾いて猫が苦手な酸っぱいミカンのしぼり汁が垂れる。直径20センチのプロペラのモーターのスイッチも同時に入り、においを広げる。
 家で猫を飼う猫好きな山本君は、野良猫に自宅の網戸を破られたことをきっかけに、「猫を傷つけないように追い払う発明ができないか」と構想を練ってきた。このため、プロペラの回転速度は遅めにしたという。
 小学6年の時に人の動きをセンサーで感知して傘が自動で開く、傘の置き忘れ防止装置で特許を取得している。山本君は「猫にも人にも優しい発明ができた。これからも多くの人を笑顔にできる発明を続けたい」と話していた。(2009年7月7日、読売新聞)
-----------------------------
ねこへの優しさもあるところが嬉しいけれど、ねこはもはや野生の生き物ではないから、飼っている人、外に出さないようにしましょう。

育てられないのならば、避妊と去勢、ちゃんとバースコントロールもしてね。交通事故やねこエイズに罹らないためにも、ねこは屋内飼い、おもちゃがあれば大丈夫、多頭飼いもいいかも。ねこの飼い方の基本は、これでいきましょう。

「誰でもよかった」

大阪で痛ましい事件が起こった。

パチンコ屋にガソリンをまいて火をつける。客と従業員の4人が殺された。

きょう出頭した41歳の男の供述、「人生に嫌気が差して通り魔みたいに誰でもいいから人を殺したいと思い、火をつけた」(NHKニュース2009.7.6)。

どこかで論評された台詞ではありませんか。そう、少年事件の凶悪化で取り上げられる「誰でもよかった」。孤立している青年、ゲームのせいで現実と架空の違いが付かず、ゆがんだ親子関係うんぬん、とね。

寿命が延びているから、いまや40代でも少年犯罪に含められるのかもしれないけれど…。「子ども理解」や「青少年を捉える」なんて、全くいい加減なものです、と言ったら関係者は怒るかしらん。

2009年7月6日月曜日

自分ならどうする?

わたしを含め、「言いたい放題」が可能になったネット社会、対岸の火事よろしく、いい加減な調査で、自分の思いだけ先行する類の書き込みが多いように感じる。

ここまで間接情報がなかった時代、「お前、見たんか」と言われれば仕方なく黙らなければならない場面が往々にあった。不確かな情報だけで判じることの軽さが問われたから。しかし、文字と写真あるいは動画を通じて、間接情報が「そのまま」を伝えてくれると、しばしば確信させてくれる現在、伝聞をもとに判断して何ら問題なし、「言わな損」とばかりの雰囲気になっていることを憂う。それが特定の相手に対してとなっていない分だけ、情報の「ゆがみ」は加速される。質の低い伝言ゲームということだ。

直接に接したときですら見え方は一様でないのに、書き手のフィルターを通じて加工された情報をさらに自分の「めがね」で編集して「事実」がこうだと判じる。

誰しも「事実」から遠いところで判断せざるをえないことはやむなしの面もあるからこそ、評価を下すときにはより慎重にまた謙虚でありたい。誰かの尻馬に乗って、「そうだそうだ」と自分が批判される心配のない高みから言うのではなく、「もし自分だったら」と想定して、どう事態を見るか、どんな判断ができるか、いかに行動できるか、を考えたい。

すぐれた論文は何十年経って読み返してもおもしろい。早々に使い捨てにならないような文章が書けるように努力したいと思う。書く者の責任をいっそう感じられるように自分をマネジメントしたい。

2009年7月3日金曜日

歯がとれた


ねこフリークのみなさま、お元気ですか。
ねこや犬は歯磨きをしないけれど、どうして平気なんだろうとは思いませんか。人間でもたまに虫歯になったことのない人がいますが、多くの場合は、乳児のときに母親などから口移しされる際に虫歯菌もいっしょにもらってしまうそうですね。

さて拙宅の輩ももちろん歯磨きの習慣はありませんが、それでかまわない仔とそうでない仔がいるのです。後者の極めつけがジジくんです。

この仔、どういう訳かほかのネコとくらべて口臭がきつく、やっかいなのです(気分よろしくない話題であることを今ごろお知らせしてごめんなさい)。かといって、歯ブラシをつっこむ訳にもいかず。残されるは獣医さんに連れて行って麻酔を掛けて口の中をきれいにすることくらいですが、麻酔は事故もありうるのでおっかなく、やむなく放っておりました。

けさ起きると、床になにやら転がっています。「ん?」と取り上げると明らかにネコから抜けた歯でした(お見せすることを躊躇しましたが、美しくないものをすみません)。歯の上部分のやられ方は相当ですが、歯茎の下は白いまま。おそらく、歯茎が弱ってとれたのでしょう。

この点、家ネコは食べやすいエサをもらいますから、あんまり心配はないけれど、人間も気をつけよ、っと思わされたことです。嬉しくない話題で失礼しました。

2009年6月29日月曜日

教員のコミュニケーションの力量

このごろコミュニケーションについて学びたいと思っている。

「学校の常識は社会の非常識」という言い方に、ほんの一部、真実味があるとすれば、それは教員の言語的・非言語的なコミュニケーションの状況から伺うことができると思うのだ。

たとえば、接遇という言葉。私の限られた経験に過ぎないが、ほとんどの教員はこの言葉を知らないように思う。いわゆる社会人になれば、一番に学ぶ言葉だろうが、この言葉を知らないままに何十年と過ぎてしまいかねない環境は一考に値するのではないだろうか。

きょうの小さな経験。
大学院の授業に遅れると現職の教員でもある学生から電話があった。学生の場合、氏名を名乗られるだけではこちらはわからない。たまたまかもしれないが、自分がどのように受け止められるかを想像しながらやりとりすることに、教員の一部の人はひょっとしたら慣れていないのかもしれない。対人関係づくりは教職で問われるもっとも根幹の力量かと思うのだが。

2009年6月26日金曜日

さだまさしの「加速度」

この頃はさっぱり機会がなくなりましたが、カラオケに行くとおおよそ守備範囲がそれぞれにわかっておもしろいです。

わたしもご他聞にもれず、ちょっと歌うと「ああ、あの時代ね」とわかられること明々白々ですが、なかでもこの曲には思い入れがあります。

ケータイ全盛の今、なかなかイメージが持てないかもしれないけれど、家以外の電話は公衆電話しかなかったこと、それゆえの切なさやあきらめがよく表されているように思うのです。

テレフォンカードすらない公衆電話。切れそうになるときにつぎ足す10円玉、10円玉がなくて泣く泣く入れた100円玉(電電公社の手抜きのため、おつりが出なかった)、理不尽なことを含めて、公衆電話には有り難み、困惑、いらだちと色々な気持ちが交錯します。

1980年代終わり、阪急梅田駅の近く、今も思い出すワンシーン。コンサートチケットをとりたかったのでしょう、若い女性がプッシュフォンを何度も何度も押して、つながるよう掛けていました。リダイアルもなく、インターネットはもちろん影も形もなく…。これでも当時は、ダイヤルを回さなくてよかった点でけっこう進んでいたのだけれど。

「最期の電話がことりと切れて、僕の手に残ったのものは、発信音と穏やか雨のさざめき。途絶える直前の君の優しさは最期にピリオド打たなかったこと」という、さださんの歌詞は、やりとりできないもどかしさの反面、けっこう運に任せてしまう(どうしようもなく)ことの両方を含みこんでいいなあ。

つきあっていた頃、いまのパートナーに一つ感心されたのは、待ち合わせをしていたのになぜか会えず、1時間以上経って待ち合わせ場所から、ぶじ帰ったかどうかを彼女の家に電話したこと。当時はそれしか確かめようがなかったからね。

外で他者と会うことが難しかった頃、その不便さと有り難みは、今やどちらもほぼなくなってしまいましたね。

2009年6月21日日曜日

新幹線に食堂車があった頃

みなさま、実にお久しぶりです。
この間、拙ブログをのぞいてくださった方、さぼりっぱなしでごめんなさい。

ある事件についてえらく心がくたびれてしまい、気力喪失状態が続いておりました。どなたかがブログに、足利事件(菅谷さん冤罪事件)と同事件とのダブルスタンダードと題して、一面的な捉え方に警鐘を鳴らされていますが、同感です。限られた情報だけで「わかった」とすぐに判断して評価を下さないこと、「なぜ…」と一度疑ってみること、より慎重に多面的に事態を理解しようとする姿勢を保つことが、多元的社会ではいっそう大切ではないでしょうか。

さて、きょうは実に奇遇なことに、鳥取のIさんに大阪でばったり出会ったので(蕎麦屋さんにいたら、後ろから私を呼ぶ声が…。現職の先生の誰かかなと思いながら、ちょっと店を出て戻ったら、2年少し振りに会う御仁が座っておられました。ああ、びっくりした(^^;))。そんな日だったので、袖振れ合うも…と、昔話を思い出した次第です。

以前、新幹線には食堂車がありました。四半世紀近く前、大学院生だった頃、東京の神保町や早稲田界隈に出かけては古本を買っていましたが、東京からの帰り、新幹線の扉が開くやいなや、一番奥にあるふかふかクッションの席を陣取るべく一目散に食堂車に向かったのです。

テーブルのない座席では、揺れる車内ゆえノートをとることが難しく、ちょっと考え事をするには食堂車のテーブルが最適だったのです。それに広いし、車内販売の声に邪魔されることもないし。

とはいえ、食事はなしです。ご想像がつくように食堂車のメニューはどれも高くて…。オレンジジュース(たしか350円だったと思う)だけ頼んで、できるだけ長く粘ったものです。店からすれば、なかなかええ根性してますね。

そんなある時、すでに先客がいて目指した席はなかったので、4人用の席に座っていました。頼んだのはいつもと同じ、オレンジジュース。そこに「相席よろしいですか」とボーイさんの声。斜め前に壮年の男性が座りました。

男性は料理を頼んでビールを飲まれていたのですが、しばらくすると、なぜか前に座っている私に「どうですか」とグラスを勧められました。こういうお誘いにめっきり弱い私なので(要は飲むのが好きというだけですが…)、ありがとうございます、と頂いたのでした。

それがきっかけでした。どんな話から始まったか忘れましたが、えらく盛り上がってしまい、気分が良かったのでしょう、その男性は次々と料理を頼みはじめました。もちろん、ビールも次々とお代わりです。

内心、ひやー、すごいことになったなあと恐縮しながらも、こちらも実に楽しくおしゃべりしていました。茨城の工場で働いていること、息子さんが…云々と話が続きます。こう振り返れば、わたくし、人の話を聴く素養はあったのかしらん。

そうこう1時間半ほど過ぎたように思います。本当にたくさんいただきました。お酒も食べ物も…。そこで、ちょっとトイレにと失礼して戻ったところ、男性がいません。ボーイさんにたずねると、もう支払いを済ませて出たとのこと、びっくりしました。

割り勘払いとは考えていなかったものの、ちゃんとお礼も申し上げず、お別れも言えず…。悪かったなあと思いながら、残ったビールを飲み干しました。

歓談中に書いてもらった連絡先、今思えば、なぜ葉書の一枚も出さなかったのかと自分の幼さに呆れますが、当初はその地まで会いに行こうと思っていたのです。でもそんなことはすぐ実行するわけでもなく…。そして5年ほどが経ち、黄色くなったメモは捨ててしまいました。

今もお元気にお過ごしでしょうか。あの時はご馳走さまでした。そして楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございます。

いつからでしたか、食堂車もなくなりました。
あそこでよい出会いを得たこと、本当に有り難いことでした。

2009年5月23日土曜日

これは誰でしょう


ねこフリークのみなさま、

すっかりご無沙汰しています。

レギュラーな授業、会議に加えて、学外の仕事がぼちぼちやってきました。今月は、滋賀、新潟、石川、佐賀にお邪魔します。行く先で大いに刺激を受け学ぶところも大ですが、この前後の仕事が結構あり、ちょっと青色吐息。寄る年波には勝てないという感じになってきたのでしょうか。

きょうは学会関係の仕事で一日が終わりました。明日も似たような仕事があります。世の中は土日なんですね。いやはや…。

さて、ブログのネタに困ったときの頼みは、拙宅の犬、ねこです。
さあ、この写真はだれでしょうか。わかる人には言うまでもない、ことし9歳のあずきです。変わらず甘えん坊のこやつは、ひとがキーボードに向かっているとぐんぐんと敷地を広げ、どよーんと寝そべってくれます。はい。

まったく健康優良児のような血行の良い脚を出して、大いに自己主張します(要は甘えたなのですが)。水銀に比類するかのような比重の高い身体で、そこらをのっしのっしと歩くのです。人間もそうでしょうが、同じように歩いているのに何故かくも足音が違うのかしらん。

こうした仔たちは、ときにやっかいでもあるけれど、いてくれるだけで大いに癒されます。必ずしも言葉を交わさないのに、おもしろいことですね。

いよいよ初夏がスタート。新緑が次第に色を濃くしていくなか、きょうも生かされていることを感じます。有りがたいことです。

2009年5月4日月曜日

アイディアの出し合える学校づくりを

知り合いの先生から転任の葉書をもらった。
新しい学校で教頭になられた由、おめでとうございます。

2006年の文部科学省調査において、多忙と言われる教員の中でも教頭職の勤務時間は他を大きく上回っており、加重負担は明らか。くれぐれも体調管理に気をつけてくださいね。

いま読み進めているドイツでの取り組み。その眼目の一つは教員の健康管理だ。やる気のない子ども、騒がしい学校、相談しにくい同僚、そして話の通じにくい保護者、どこかの国と同じような状況がドイツでも指摘され、教員のバーンアウトも少なくないとされる。この状況を改め、教員が意欲を元気さをもって仕事に取り組むことができる鍵は何か。新しい視点が提示されているように思う。

かたや日本では、私の見る限り、まだまだ「子どものため」に頑張るという基調が一般的だ。無碍にできない言い方だけに、無理をしてもそう頑張ろうとする教員が圧倒的だろう。けれども、疲れておもしろい発想の乏しい教員がよい授業をできるとも思われないし、何より多くの教員にとって「自己実現」の術として教職があったはずなのに、これでは本末転倒ではないだろうか。

「そんなこと、言っても仕方がない」としないで、働きやすさについてもっと考えてみませんか。校長が主導権をもってこんなことを進めなければならないのだけれど、すっかりくたびれている人が少なくないしなあ。

ドイツの例では、学校開発チームを作るというプロジェクト方式。日本の都市部で急速に増えてきた若い教員の力を引き出すこともできるだろう。合わせて、学校の内的な発展を促すように、教育委員会の智恵と努力にも期待したい。


2009年4月24日金曜日

葉っぱも食べます


ねこフリークのみなさん、こんにちは。

またご無沙汰してしまいました。
授業がいよいよスタート、対外的なことや、あれこれの会議もあり、なかなかまとまった時間がとれません。

「気が付いたらもう夕方」という感覚、学校の先生からよく聴きますが、今の時期ならば私にもわかりますよ。

やることが限られている私のような職務ですらこうですから、無限定的ともいえる義務教育や高校の教員の労働は推して知るべしでしょうね。これが連日なのですから、さぞ大変かと思います。

でもこれはいけません。だってゆっくり考える時間がないもの。新しいアイディアが浮かびにくいってこと、痛感します。創造的でない教育活動って、あんまりうまくいかないですよね…。

さて、今日はもなかの登場。犬が草を食べたがるのと同じように、猫も毛玉を吐き出すためでしょうか、ときどき葉っぱ類をほしがります。これはデュランタライム、もう10年以上この鉢に植わるものですが、お猫さまに供されているわけです。

外の新緑もまぶしい昨今、みなさんに楽しく充実した時間がより多く流れますよう。

2009年4月8日水曜日

春うらら


ねこフリークのみなさま、お元気でお過ごしでしょうか。

今年はことのほか、長く桜を楽しめました。京都のキャンパスも今が満開。歩くあちこちでほっこりとした気持ちにさせてくれます。新入生にも嬉しいことだったでしょう。

拙宅のきなこは今年11歳。変わらず元気でいてくれます。ところかまわず爪を研ぐ癖も相変わらず。飼い主は勝てません(^^;)

みなさんにも暖かく穏やかな時間が流れますように。

2009年4月6日月曜日

桜が満開です

都市部でも桜の木はちらほら見ることができます。近所の桜もそろそろ満開、新しい1年がまた始まりますね。

散歩道、しばし見上げて帰ったら、Maiの鼻に桜の花びらが…。

早く取ってほしかっただろうに、馬鹿な飼い主は先にカメラを取りにいったことです。

みなさんのところの桜も今が盛りでしょうか。

2009年4月5日日曜日

大学の春の祭り


拙ブログをご覧くださっているみなさま、

すっかりご無沙汰しています。春休みは勉強のできる一番の季節。授業が始まるとなかなか落ち着かず、かつて同じくまとまった時間の取れた夏休みは、あれこれの講座(今年からは免許更新講習も加わり…)で8月はほぼこれで終わるため、研究らしい作業は今をおいてほかできないのです。いやはや。そんなことで、しばらく間が空いてしまいました。

きのうは、勤務する大学で「ふれあいフェスティバル」がありました。今年で14年目。各学科の専門を活かした出店ほか25ほどの企画があり、訪れた人に桜を眺めながら回ってもらうという趣向です。今回はお昼を前後して雨に見舞われ、最後はテントの片付けもできないほどの強い雨脚でしたが、それでも千数百の人たちに来てもらえた次第です。

その中に登場したのが、本学のマスコットキャラクター、そったくん、です。かつての学長が揮毫されたという
「啐啄同時」から取った名前で、殻を外からつつこうとする親と内からつつこうとする雛が同時の様を示しています。教える側と学ぶ側との関係を上手く言い当てているのではないでしょうか。

ということで、ひよこキャラのそったくん、この等身大の着ぐるみがキャンパスを歩きます。大学スタッフが汗をびっしょりかきながら入ってくれています。小さな子どもがさわろうと寄ってきたり、記念写真を取る姿も見られました。

ひこにゃんをはじめ、「ゆるキャラ」ばやりの是非もあるでしょうが、まずは楽しむのもよいのでは。大学という場のイメージも着実に変わりつつあります。

2009年3月27日金曜日

生活の場としての学校

ここ最近、ちょっと新しいテーマにはまっています。

学力向上が賑やかにいわれる一方で、どうして教員がしんどそうなのか、そのズレを問題にすべきではないかとかねがね思っていたことがきっかけです。学校はもちろん勉強する場所だけれど、それだけではない、ということをどういう言葉で言い表せばいよいかと考えてきました。「生活の場でもある」と言うのであれば、もっと教職員が生き生きしているはずではないか、なのにどうして…という思いが切れないのです。

昨年に書いた論文の一つに「健康的な学校づくりに向けて」とサブタイトルを入れていたことが、今になってみれば、そうした関心で細々と考えてきたのだなと自分なりに納得しています。そう、今の関心は「健康と学校」なのです。

ドイツ語圏で興味深い試みを見出すことができます。これまでの「教育問題」に留まっていないところが危なっかしいけれど、惹かれます。幸いなことに、ドイツ語も以前より随分と楽に読めるようになりました(「今頃そんなことを言っているのの」とお叱りをうけるかもしれませんが、英語以上に読めるのは嬉しいことです)から、関係資料の理解もはかどっています。

それなりにまとまりましたら、論文にてご報告しますからしばらくお待ちくださいね。この数年間に取り組んできたつもりのキーワードが一挙に繋がるようです。笑い、やりがい、エンパワーメント、清潔さ、など。「わからないことがわかる喜び」を普段以上に感じています。

2009年3月18日水曜日

これで効率的に仕事ができるの?

ある公立中学校を訪れることがあった。

とある会議のため、誰もいない職員室だったが、校長先生にお願いして少しお邪魔した(はじめ、教室を見せてほしいということで鍵を取りに行った先が職員室だったため、結果的に見せてもらうことになった)。

自分の仕事と、勤務の形態も環境も大きく違うので一概に評価はできないが、あまりの整理のなさに、目が点になったというのが正直な感想だ。

きれいに収められた机もごく一部にあるが、多くの机は少なくとも表面の半分、いちじるしい場合は8割くらいを占めるかと思われるほどにモノが溢れていて、とても仕事をする場所があるとは思われない。生徒のファイルやプリントもあるからやむを得ないのかもしれないが、それにしても混沌としすぎているように思う。冬なのになぜうちわがあるの? これだけ積み上がったら、下の分はほぼ死蔵では? と疑問がわく。

学級担任の場合は教室で仕事ができるのかもしれないが、これだけうず高くモノに埋もれていたら、向かいの人の顔を見ることは不可能だ。何のためにここに集まっているのか、その効用がきわめて疑わしい。

生徒たちに「整理・整頓」を指導しているならば、すでに矛盾しているし、そうでなくとも、忙しい毎日ならばもっと資料や情報を取り出しやすく、てきぱきと仕事ができるように環境を整備すべきではないだろうか。これでは、モノを探すだけで結構な時間がかかるように思う。

そして、職員間のコミュニケーションを良好に保つという観点が欠落しているとも感じる。何気ない会話ややりとりが情報や状況の共有を促し、「ヒヤリ・ハット」(ヒューマン・エラー)を抑止するにもかかわらず、これではせいぜい両隣と顔を合わせるのが関の山だ。こんな状況で「教職員が一致団結して」などできるのだろうか。

他の学校と比べても大きいと校長がいうこの職員室には回りにロッカーも配されているが、あまり活用されていないらしい。

あるいは、生徒がこの部屋を見て、教員を尊敬できるだろうかという素朴な疑問もわく。とくに生徒指導にしたがうなんて気持ちが起こりようもないだろう。ハロー効果のことを思い出してほしい。私の偏りがありすぎるのかもしれないが、とにかく汚いのである。

はたまた、学校の自主性・自律性というのならば、教育委員会からのあてがいぶち?、あるいは「何となく買う」のを止めて、みんなでどんな職員室にしたいか、ちゃんと話し合いをしてよい仕事のできる職員室経営について考えてみようよ(学校事務職員が牽引役、がんばれ!)。

「これでも(あるいは、こうだからこそ)いい職員室なんだよ」と誰か教えてくれませんか。わたしには、凋落しつつある学校を象徴するようにすら感じられた、とってもがっかりな日だった。学校の職員室ってどこでもこんな感じなの?

2009年3月12日木曜日

あまりに悲しい出来事

日本でも報じられたが、ドイツ、シュトットガルトの北東に20キロほど、人口27000人の小さな街、Winnendenで、「全ドイツの悲しみの日」(メルケル首相)と言われるほどの事件が起こった。

17歳の青年が昨年卒業した自分の実科学校をピストルで襲い、生徒9人、教員3人を殺害。犯人はその後、通りかかったクルマを止め、運転手を脅して街に向かい、自動車販売店で商談中の客と従業員など3人をさらに銃撃、あわせて15人もの人たちを殺した。警察との銃撃戦になり足を負傷した犯人は、最期に自ら頭部を打ち抜き死亡したのだ。

犯人は、黒い戦闘服に身を包み、9年生と10年生のクラスを襲った。生徒のうち8人、教員は全員が女性で、多くは頭部を撃たれた。殺された中には、まだ手にペンを持ったままの生徒もいたという。

女性を狙ったとの見方もあるが、大きな謎は、この犯人を知る人がコミュニケーションのある好青年、あるいは、おとなしく控えめな男性だと言っていることだ。
コンピュータゲームの影響との意見もあるが、一緒に住む両親を含め、ごく普通の家族と見られており、どうしてこんな惨事が起こったのか、まだ誰も説明できない状況にある。

学校での危機管理のあり方や武器所持のあり方にも議論は進みそうだが、何よりも悲しくて仕方がない。事件の現場となった街は、以前に私が住んだ町と15キロくらいしか離れておらず、今も定期的に訪れているSchwabenという地域に入るからだ。その街を訪れたことはないが、街の雰囲気は何となくわかる。近くに住む友人や知り合いも大きなショックを受けていることと思う。

亡くなった方々の冥福を心からお祈りするともに、残された家族や友人の方々にお悔やみを申し上げたい。本当に残念で悲しいことが起こった。


2009年3月7日土曜日

品のない講演

ある審議会のメンバーいう人の話、きいてん。

新しい学習指導要領のことやったけど、驚いたわあ。だって、「要は昔の先生、昔の学校に、ってことで、新しいことはないんです」って言うんやから。

せやったら、昔みたいに、暴行しても
体罰やいうて平気やった先生や、成績の説明をせなあかんなんて露ほども考えへんかった学校に戻ってかまへんってことかあ。えらいこと言うなあ。

学校にそう言うんやったら、万全のサポートで学校を守ってくれるんやろね。「モンスター」なんて許されへんし、外部評価なんて必要ない、情報公開なんかも何のこっちゃ、って感じやからね。学校が努力と信念に基づいてしっかり子どもの育ちのために頑張ればええんやって。もちろん、「個に応じた指導」とか「心のケア」なんてないわ。そんな言葉なかったしね。

いまはもう昔に戻れへんから、あれこれが問題になってんのに、無理を承知で「昔に」っていう話なんやろか。昔のつもりでやってたら上手くいかへんようになったから、教育改革ってうるさい話してきたんとちゃうのん。言うてはることが論理的やないから理解できひんで。まず話する自分の頭をようせんと。

それにしてもこの御仁、話に実に品があらへん。ちょっと前の流行言葉で言うたら、まったく品格が欠けとる。

「酒が呑めるからって、…(って職)に就いた人がいるんです」とか、「単細胞の…」とか、聞いてる方が恥ずかしくなるようなことをどんどん仰る。旅の恥はかき捨て、いうことやないやろね。たくさん人いたけど、ワシだけやろか、自分が毒されている感覚にとらわれたで。う-、ほんまに気分悪くなったわ。こんだけ人から元気を奪う話って、何やねん、ほんまに。

人間的成長て何度も言うてはったけど、人間、長いこと生きてたら成長するっちゅう訳ではないことがようわかる例やった。「誰とは言わんが…」と言いながら、わかる人にはわかる言い方もする。言いたいんやったらちゃんと言わな。言わへんのやったら言わんとき。どっちやねん。ほんま姑息やなあ。

敬老の日もある日本なんやから、年とるほど慎み深ならなあかん。回りが困るやんか。じゅうぶん年とってんのに、まだ「あの人、えらいなあ」って思われたいんやね。自分にそんなに自信ないんかな。「もっとほしい」っちゅう飢餓地獄に堕ちんように、ワシはちょびっとずつ頑張りながら年とるで、って思わされたわ。まさに反面教師やなあ。

それにしても、こんな感じで公教育が決まってんのかなあ。それって最初から失敗してんのとちゃう?

2009年2月28日土曜日

学校の正当性の低下

昨日のニュース、「文部科学省は、不登校の高校生がフリースクールなど学校外の施設に通った日数を、在籍高校の校長の判断で出席日数に加えることができるようにすることを決めた。09年度から適用。同省によると、不登校の高校生は07年度で約5万3000人。うち約1000人が教育委員会の設置する教育支援センター(適応指導教室)や、フリース クールなどの民間団体・施設で相談や指導を受けている。「若者の社会的自立のためにも不登校対策の充実が必要」として支援措置を決めた。学校外の施設へ の通学定期券も発行されるよう、鉄道事業者などと交渉している」(毎日新聞、2009.2.27 抜粋)。

小・中学校については1992年からこのように対応しており、それが拡充された格好になるが、義務教育でない高校についても同じ扱いをすることになるとは…。とても残念な思いがする。

むろん、学校が生徒を「見捨てない」という気概を持って、少しでも子どもたちが向学校的であることを願うということもわからなくはない。その上で、「これって、学校の存立基盤を自分で掘り起こしていない?」と思うことも事実だ。

学生に学校制度の講義をするときに付け加える。「高校には不登校はないのです。なぜなら高校は行かなくてもよい学校段階なのだから。だからこそニュースにはカギカッコをつけて、『不登校』って書いてあるでしょう」って。

なのに、高校で不登校、それを他の施設に通ったら登校に読み替えるっていったい?
 
一昨年だったろうか、高校での未履修問題が騒ぎとなった。結局、「集中授業」などで単位認定をしたという不細工な終わり方をしたが、高校を卒業したというからにはこれだけのことを習得した、ということについて文部科学省や教育委員会、もちろん学校も主張するつもりがないから、どこかでなあなあにしたいと思った結果だろう。

ことほどさように、学校が「誰が何と言おうとこれが卒業ラインなの」と矜持を保つことはなく、できるだけ緩くすくい上げようとするし、教育行政機関もなるべくその方向を活かそうとする。それで上手く行けばよいが、そうはならない。「真っ当に」高校に通い続けている生徒は割が合わないではないか。そして、その不公平は生徒にとってよくないだけでなく、学校の「もっともらしさ」を危うくする点でまずいのである。

制度が官僚的に淡々と運用されず、関係者の恣意に委ねられること、これは文字通り「お手盛り」となる。教育は他の領域以上に情緒的であるからこそ、そこに担保される専門性はより高くなければならないし、それを欠いては、なぜ学校に行くのかをいっそう説明できなくなる。

義務教育段階でも原級留置が法定されているのにこれが運用されず、その一方で「学力向上」が声高に叫ばれるというアンバランスさをそのままにして、「信頼される学校」などというものが実現できるのだろうか。

児童・生徒にどんな「力」を付けさせてこそ卒業に値すると、教育行政機関と学校関係者は考えているのだろうか。その言動の無理さ、厳しくいえばいい加減さを認め、学校の入学と卒業の原則に立ち返るべき時期に、とうに来ているのではないだろうか。

2009年2月16日月曜日

シンガポールの「割り切り」

NHK「沸騰都市、シンガポール-世界の頭脳を呼び寄せろ」を観た。

水資源がないという弱みを生かして、助成金や研究費をテコに水関係の会社や研究者を誘致していることに例示されるように、ここでは国家が率先して優秀な人材を海外から集めることで、「豊かさ」を追求している様子がよくわかる報道だった。

外国から招聘された研究者や会社経営など限られた職種は厚遇されているものの
査定がきわめて厳しく、一流研究誌に論文が掲載されないとポストを追われかねない状況だ。一般の外国人労働者には人材管理会社への登録が義務づけられるが、かといって仕事が保証されるわけではない。しかも滞在許可は2年間。

さらに驚いたのは、半年ごとに外国人労働者の女性が妊娠検査を義務づけられていること。この国で出産することのないように、シンガポール人以外の人口が増えないようにという明確なメッセージが読み取れる。


世界的な経済危機のなか外国人労働者への就業が進んでいないことを新聞記者に質問された現首相は言う。「はっきり言って、外国人は調整弁です」と。この首相が率いる
政党(人民行動党)は議会84議席中、82議席を占める。反対勢力はない。

シンガポール人のための国づくりという目標は明確だ。それが世界全体のことを考えていなくても。あるいは、そうしたことはおよそ無理なのだから、自分たちのできるところに専念しようという考えともいえる。既存の国家の
「純粋さ」を守ろうとするシンガポールだ。

たくさんの外国人を「お客さん労働者」として、そして難民として長い間にわたって受け入れてきたドイツ。「学力向上」ひいては国民的統合を図ろうとするも難しい面を抱えている。学校とコミュニケーションの難しい保護者、家族主義ゆえにドイツ語をなかなか獲得できない子ども、文化的背景を伴う衝突…。

こんな国々にあって日本のこれからは? ここでも次の局面がもう目前に迫っていることを感じさせられる。

2009年2月8日日曜日

「ネットいじめ」の次の局面

前のブログにて、Cyber-Mobbing(インターネットを通じたいじめ)がドイツでも深刻という声を聞いたと書いた。

この言葉をたどってドイツ語のWikipediaを読んでみたら、生徒や学生による教員に関する匿名での書き込み、という記述があることを知った。大学でも学生による教員の「評価」のサイトのあり、それが暴走する危険性を指摘しているのだ。

開けてみると実に詳細なデータになっており、驚かされる。試しに、個人的に知っているある教授を探すと、結構な数の書き込みがあった。数値評価と自由記述の2つからなっており、前者では「面倒見のよさ」「公正さ」「理解のしやすさ」などがあり、最後に「お勧め」か否かをつけるようになっている。もちろん、平均スコアとお勧め率も弾かれている。

自由記述欄には、何も書かれていない回答も多いが、長い文章も結構ある。ほとんど理解できない、矛盾している、必修だったから仕方なくとった…と厳しい書き込みがある一方、この大学が同教授を得たことは幸いだ、はじめは混乱したが徐々に面白さがわかってきた、何といっても大学なのだからこれでよい…とやや少なめながら強い評価も見える。私の知る同教授の姿とおおむね重なるので、それなりの評価とも言えようが、強い口調の否定的書き込みには辟易だ。

(わたしの不勉強かもしれないが)日本では「ネットいじめ」はまだ生徒たちの間に留まっているように思う。しかし、この次の局面は、教員に矛先が向けられることだろう。「教育問題」としてこれを扱える時間はあまり残されていないのかもしれない。

ネット社会が不可避であるなら、そこでの「市民性」をいかに育てるかが問われるべきだろう。携帯電話を排除したり利用させないようにするだけでなく(もちろん、飲酒や喫煙、投票権と同じく、年齢格差はあって然るべき項目もあるだろうが)、それらとどう付き合うのか、匿名性をなくすことができない社会でいかにうまく人間関係を作っているのか、試され、次第に定式化されていくべきだろう。

群衆が存在しなかったはるか昔、たとえば中世社会はみんなが顔見知りだった。そこには匿名性のないゆえの良さと同時に、「しんどさ」もきっとあったことだろう。だからこそ、キリスト教会では懺悔室を設け、建前としての匿名性を確保したうえで、人々の告白を促すことができたのである。これに対して、現代社会では匿名性が席巻しており、それが従来の「顔や身体は見える」状態を一挙に越えた水準に至っているために、混乱が生じている。

自分が見えにくい社会では抑制がききにくい(「旅の恥はかきすて」)。だからこそ、これまでそれなりに馴染んできた商品経済社会の水準から、徐々に匿名性高くとも関係を維持、発展させられるよう経験を積むことが必要となる。

「ネットいじめ」問題は社会の鏡の一つに過ぎない。大学を含む教員は、この次の局面を強く心づもりしなければならないと思う。

2009年2月7日土曜日

学校の時間割の変化

この数年間のドイツの学校の大きな変化を挙げるなら、学校の時間割と言ってよいでしょう。

一例ですが、写真の基幹学校(Hauptschule)の黒板にあるように、SZと略される「宿題の時間」で取り組む課題が示され、1週間のうちの数日は、この時間が時間割内に設けられています。

生徒たちに聞くと、おおよその宿題はこの時間に終えてしまえるそうで、これ以外に家で勉強をすることはあまりない様子。基本的に学校で宿題をしてしまうということなのでしょう。

基礎学校4年生を終えて分化する3種類の中等学校にあって、基幹学校は学力上、決して上位と言えない生徒が多い状況が関係しているのかもしれません。とはいえ、授業が終わってから、学校でこうした時間が設けられ、その面倒を見るスタッフが退職した教員など「外部」の人によって担われる状況は、これまでの半日学校に替わる全日学校への変化を示しているように思います。

なお、学校での補習を担うNachhilfeという家庭教師や塾のことも生徒から聞きました。この9aクラス23人のうち、こうしたところに通っているのは3人、どちらかといえば苦手な教科の克服のために行くようです。だいたいは1週間に2回、1回は1時間くらいとのこと。日本の学習塾と比べたら、ずいぶんと違うようにも思います。なぜ日本は公的な学校だけで済まないのでしょう。「学校の教育力」が小さいため、あるいはそれ以上を求める人が多いからでしょうか。

「同じかもしれない」からスタートしてみる

みなさま、お久しぶりです。この10日ほどドイツに出かけていたため、更新に手が回りませんでした。南西ドイツの朝はマイナス3度くらい。屋内はシャツ一枚ちょっとで過ごせるのですが、外は寒かったです。

いきなり大上段な物言いで恐縮ですが、研究が何かを発見しようとする行為であることから、そこでは「こうなってるのは?」という仮説や予想が前提となります。探索的研究といって予断を持たずに観察、分析するという研究スタイルもありますが、大なり小なり予想のない研究はあまりないといってよいでしょう。

そこに観察者の主観や願いの混じる余地が生まれます。広く社会を見ようとする立場にあっては、社会に自分が含まれることからまま自分を見ることでもあり、その余地はいっそう大きくなりがちです。イデオロギーが生まれ、それが自己正当化となりがちなのは、自然科学と大きく異なる点でしょう。

この主観がどこからスタートするのか、乱暴に言えばそのあり方によって研究の半分以上は決まるように思うのです。自分が思うことを主張するために材料を探してくる、社会科学系の研究はどうしてもそうした趣きや偏りから逃れられない、と私は考えています。

ならば、最初の段階において、「ここが違うのではないか」と考えるのとおなじように、「ここは同じではないか」と考えるスタイルをとったらどうだろうか。こんなことをドイツで考えました。

ある中等学校で、9年生の女生徒4人と1時間半ほど話をする機会があり、いじめ(Mobbing)の様子が、嘲りや侮辱、たまに暴力はあるものの、無視や悪口があまりないと彼らが語っていたので、日本のそれと違うのではと一度は思ったのです。ところが、あとで同校にも職場を持つソーシャルワーカーと話をしたら、彼女たちはいわゆる良い子でいじめ問題とは少し距離のあること、またいま深刻なのは「ネットいじめ」(cyber-Mobbing)なのだとも聞きました。もしそうならば、日本で言われている状況に近いことになります。地球のほぼ裏側でも同じようなことがまま起きているのかも、と感じさせられた次第です。

観察者の主観から、場所が変わると、どうしても「違うのではないか」と考える傾向が強まりますが、それを認めつつ「同じではないか」と予想して対象を見てみることも大切ではないだろうか。その上でなお「違う」と思われることは何か、それが「出羽の守」と違う研究になるのでは…。ドイツの学校を訪れながらそんなことを思っていました。

2009年1月27日火曜日

体罰問題の議論から

教職大学院の授業が終わったあと、印象深い話ができた。
現職の中学校の先生との話だ。

いわゆる体罰問題の捉え方が話のきっかけだった。ときに非公然ながら生徒に対して体罰が行われることがあるが、それが有形力の行使の困難なとりわけ女性教員にとって新たな困難を生み出すこと、つまり、力のある男性教員の前ではおとなしくなる生徒が、その反動もあってそうではない特に女性教員の前ではいっそう荒れることがあり、皮肉なことに、力で押さえようとすることが、全員でそうできないことにより、教員間の連携を奪ってしまうという結果を導くという指摘である。

体罰問題が生徒にとってどんな意味があるか、についてもっぱら考えていた私にとって、教員間のつながりを弱め、さらに女性教員が生徒からの「攻撃」に合うと同時に、「力のない教員」と同僚から低い評価を受けるという、二重の意味で不利を被る可能性にあることを知ったのは衝撃でもあった。

学校のメンバーとしてのまとまりや協力がいかに大切かは縷々述べられているところだが、そのためには、同じ教員である限り、おおよそ同じように振る舞える方略でなければならないという原則が有効であること、そのためにも、一部の職員だけで決めたり、行動したりするのではなく、できるだけ全員の合意形成を取り付けられるまで議論することが大切なこと、を学べたように思う。

これまでの学校での意思形成論はもっぱら手続きのあり方として取り上げられてきた。ところが、手続きが民主的か否かが大切なのは、民主的であることそのものに意味があるからでは必ずしもない。

民主的であることが、構成員にどのような意味や立場を与えるのか、それが学校という仕事にとっていかに効果的かを明らかにする方向で議論を進めること、それが公教育の仕事の効果や効率を実証的に問うものでもある点で、ちょっと勇気づけられる発言を聴けた今日のことだった。

2009年1月24日土曜日

権威に負けないように

我が意を得たり、という投書があった。後藤勝美「障害を『障がい』とする意味は」(朝日新聞、2009.1.23「私の視点」)だ。

同氏は、「障害」から「障がい」へと公文書の表現が変わるところも出てくる中、障害者が必ずしも適切な表記とは思われないが、と断った上でこう述べる。

「障害者」が社会環境や政策的不備から生じている不自由さに直面しがちな「社会的被害者」であること、この点では「害」を被っている立場であることを含むものと捉えるべきだろう、と。

昨年の拙ブログにて、「手短(てみじか)に、という表現は問題か」の旨を書いたが、「障害」をめぐる表記もこれと通じるように思う。

後藤氏は述べている。「『害』を平仮名に変えたところで、前述の社会的被害は何一つ変わるわけではない。それどころか、その被害をあいまいにし、あげくの果てに『害がなくなった』という風潮を広める危惧を覚える」と。

手短という表現を遣わないことで、手が短いという現実が変わるわけではない。手が短いことで社会的に不自由な状況にあることをこそ変えるべきである(自動販売機のコインを投入する場所を低くするといった)。もっとも私は、手短を迅速に、簡潔にという意味で用いているのであって、人を指して述べているわけではそもそもないが。

手短という表現をなくすことで手の不自由な人が存在しないかのような風潮を作り出すことではなく、手の短いことが特段の不自由をもたらさないような条件を整備していくことで、手短という表現が否定的価値を持たないような意味世界を作り上げることこそが求められるのだ。

アメリカでのオバマ大統領の誕生は、「黒人」という言葉にこれまでまま含んでいた否定的価値を覆すことになるだろう。「黒人だから」という説明は、否定的意味でなはく、肯定的、積極的意味を持つものへと次第に組み替えられていくだろう。

手短もこれと同じだ。手の短くない多数者が短い少数者を哀れみ、それを「見て見ぬふり」することで問題が解消されるわけではない。「手短という言葉を遣わないようにしよう」と意識するたびに、手の短い人を「違う人」と捉え直すことになる。これは、「それがどうしたというの?」という新たな発想を導くのとは反対の方向を取るから、既存の価値を強化するほかはない。

こうした考えはどうだろうか。ぜひ議論していただきたい。この論理が成功しているかどうかはともかく、もっと自分で考えること、「そうなんやって」と安易に鵜呑みにするのではなく、もっともらしい権威に身を委ねるのではなく、そもそもから考えることが改めて重要だ。

わたしの「手短」発言を指して、よろしくないと述べた教頭先生の感想には、「障がい者の…」とも書いてあった。この御仁が障害者問題あるいは差別問題について自分で考えたわけではないと判断するのは早計に過ぎるだろうか。

2009年1月18日日曜日

入試センター試験

しばらくご無沙汰をしました。全身にくる風邪なのか数日間寝込み、起きても頭が働かずと散々な一週間だったゆえ。みなさまもくれぐれもご自愛のほどを。

さて、業界関係者には恒例の大学入試センター試験がやってきました。前の大学では多いときは1700人ほどの受験生に対応しており、下働きの元締めをやったときなど、この仕事に数ヶ月は身体と気持ちが奪われてしんどかったです。しかし、新しい職場で迎える受験生は、今年は400人ほど。以前はずいぶんと多い時期もあったそうですが、楽ちんでむしろちょっと拍子抜けとすら言えるでしょうか。

とはいえ、朝から夜までの試験監督は、受験生には負けるものの、なかなか大変です。「うまくいって当たり前」なので、相当に気を遣います。その極め付けが、夕方から始まる英語のリスニングテスト…。誰やこんなことをやろうと言い出したんは。

どこの業界の戦略が絡んでいるのかどうか、一人一人にICプレーヤーを配布、持ち帰ることもできます。今年のセンター入試を受験したのは54万人とか。こんなに売り上げるものなんて他にないのでは? 「音が出ないとき」「プレーヤーを落としたとき」「トイレに行きたいと言ったとき」と実に細かな状況が想定され、準備段階で監督者はみずから「ミニ試験」を受けます。だから説明会も2回、これでも結構忙しい身にはつらいもの…。当日も、タイムキーパー役の監督者は、受験生と同じようにプレーヤーのイヤホンを耳にして問題を解いていくのですよ。

解答時間は30分、普段は「何でこんなに時間が早く経つんや」と不満も漏れますが、この時はまさに反対。「早く時間が経ってほしい」と強く願いましたね。ほんまに。

幸いにわたしの試験会場ではトラブルなく、ぶじ終わりました。受験生も慣れているのでしょう。

夜7時前にこの日の試験が終わったら、もうふらふら。受験で問われる学力とは、こんなハードな時間を2日間すごせる体力なのだと改めて得心したことです。

わたしはセンター入試の前の共通一次試験の世代。当時は「こんな入試はやめろ」という意見も聞こえていましたが、いまや消えて久しくでしょうか。ある意味で国民的行事でもあるこの入試は、当分続くのでしょうね。とまれ、えらく気疲れのした一日でした。

2009年1月8日木曜日

知らなかった大阪の路面電車

遅ればせながら、初詣に行ってきました。

とはいえ、無神論者ですからお清めをすることもなく、手を合わせることもない、のぞき見的色彩の強いものですが…。

パートナーがこのほん近くで小さい時期を過ごしたからという理由で出かけたのは、住吉大社です。
案内によると、お正月三が日の参拝客は200万人を越えるという大きな規模。

多くの社が並ぶなか、おみくじを引いたり、絵馬を冷やかしたりと楽しかったです。ちょっと裏に回ると大木にお飾りと賽銭箱が置いてありました。まさに、八百万の神の国やなあ。

そんな大社のすぐ傍を路面電車が走っています。なんと。

恥ずかしながら知りませんでした。大阪に路面電車が走っているなんて。これまで伺ったところでは、長崎、広島、富山、札幌と知っていますが、生まれたところでもあるこの地でも走っているなんて、驚きです。

帰り道、私鉄でも行けたのですが、路面電車(関西だけの言い方でしょうか、チンチン電車ともいいます)に乗りたくて、ごとんごとんと軌道を感じながら20分ほど。

前後にクルマを見ながら、町並みを走る、なかなか気持ちいいです。灯台もと暗しとはまさにこのこと。今までよりちょっと大阪が好きになりました。

2009年1月7日水曜日

改めてご紹介(4)




ねこフリークのみなさま、こんばんは。寒い日が続きますね。

ねこのご紹介もさいごとなりました。しんがりはジジくんです。

この仔は2004年の春、学生たちが保護してくれたねこの一匹。学生の控え室で(密かに)飼い主を捜しつつ飼っていたのですが、いっときは二頭の子犬まで世話をするという、しんどいこともやってくれました。今さらながら、本当にありがとう。

学生は数ヶ月も頑張ってくれたのですが、結局、主は見つからず、またしても拙宅に来ることとなりました(このくらいになると、飼う方は半分、ヤケクソですね)。

左の写真はこの頃、4年ほど前です。名前は黒ねこゆえ、映画「魔女の宅急便」からもらいました。もう一匹、キキという女の子も同時に引き取ったのですが、この仔についてはすでにお伝えしたように、昨年夏、小さく空いていた窓から「家出」、飼い主にはショックなことでした。拙宅はいやだったのかなあ。

うちの仔になって少ししてから、しばしば登場する拙犬、Maiとひょんなことから衝突。仔猫は本当に怖いものしらずです。出血こそしませんでしたが、Maiともみ合ったときに眼につながる神経が切れたのでしょう。右の写真のように、右目が閉じなくなりました。ずっと開いたままです。

獣医さんにも診てもらいましたが、外科的にどうこうするのでなければ手の打ちようはなし。幸いにも、右目には瞬膜が降りて眼球を守ってくれています。生き物の知恵ってすごい。とはいえ、神経が切れているため、右目だけでなく右側のひげも動きません。だから、変にぴんと伸びきっているでしょう。

眼が閉じないために、目やにが毎日たくさん出ます。このため嫌がっても、ティッシュで取ってやる必要があり、放っておくとカサブタのように目やにが眼を被ってしまうのです。

こんな障害猫ではありますが、まずまず元気かな。この仔も甘えたですよ。これまでの経験では圧倒的にオスの方が人に甘えるように思います。なかなか太らないのがちょっと心配ですが、他のねこにも可愛がられ、お互いぴたっとくっついて眠るのが日課です。

以上、拙宅の4匹のねこの紹介でした。いろいろな経緯で出逢った仔たちですが、永く一緒に過ごしてほしいと願っています。

2009年1月6日火曜日

改めてご紹介(3)


ねこフリークのみなさま、こんばんは。

これから節分くらいまでが一番寒い季節だそうです。くれぐれもご自愛くださいね。

さて、きょうは3番目の仔、もなかの登場です。

2000年7月、七夕の直前でした。前にいた大学で、昼休みが終わって3時限の授業に向かおうとしていたところ、講義棟の近くに学生たちが集まっています。

その頃すでに「ねこの先生」ということになっていたらしい私は、かれらから声を掛けられました。見ると学生の掌に小さな仔猫が乗っています。なんとまあ小さな…。

ところが仔猫はぐったりして、まったく動きません。学生たちが餌はおろか水を飲ませようとしてもだめ。こら、もうあかんかもしれんなあ。

ちょうど授業が始まるときだったので、学生たちにクルマを持っていないかをたずね、3時限の空いている(サボれる?)君に、大学でのノラたちの手当てや手術を廉価でやってくださっていた獣医さんまで、走るように頼みました。学生はよくやってくれた次第です。

そして夕方。とりあえずの処置だけ受けたこの仔は帰ってきましたが、どうにももらい手がいません。かくして我が家の仔になった、こんなきっかけでした。名前は、きなこ、あずき、に続く、なんとなく和菓子シリーズでつけました。

当時、コクシジウムという虫がお腹にいたため下痢がひどく、発熱もしていて食欲も乏しかったもなかに、獣医さんのところで買った栄養満点の柔らかい猫カンヅメをえっほえっほと。形のある便が出るようになってからは、いきむ力が弱いために綿棒で便を掻き出してやり、としばらくは不安定な時期が続きました。

が、元気になってからは「そんな過去は何のこと」というほどに腕白に。それなりのサイズまで大きくなったのです。やれやれ。

ところがこのお嬢、小さい頃に辛い目にあったのかどうかわからねど、6年くらい、人間の傍に来るようなことはまったくなく、一匹、タンスの上に上がり、ほかの猫ともくっつくようなことはありませんでした。抱きかかえようとすると、爪を立てんばかりに嫌がり、しゅわっと逃げてしまう始末。

ところが、3年ほど前からようやく飼い主に心を許して、甘えるようになりました。今やしばしば、人の膝の上でねこ座りをしています。こうなるまでに長くかかりました。ねこの寿命にしてみれば、相当な時間が流れたと思われませんか。

とはいえ、もなかは猫大好き、という感じにはならず。ほかのが集まって眠っているちょっと離れたところで丸くなっています。これでも随分と社交的になりはしましたが…。

もなかのご紹介はとりあえずここまでにて。相変わらずのねこ馬鹿話でした。

2009年1月5日月曜日

改めてご紹介(2)


ねこフリークのみなさま、こんばんは。

きょうのご紹介は、年齢的にチーフではないけれど、まさにチーフのような威厳、いや体格を誇るあずきくんです。

すでにblogにてご報告しているように、この仔は2000年1月、雪交じりの雨の日でした。前にいた大学の講義棟の隅に倒れていた立て看の下で鳴いていたところを見つけました。

まったくの甘えん坊で、よく鳴きます。人間にべったり派で、以前もご報告したように、あずきの爪を切るべく膝にのせ、前脚、後ろ足とすべて切り終わっても、膝から降りようとせず、そのまま仰向きに座っている、そんな仔です。

きなこと違ってこの仔は、身がしまり、いわば堅太り。きなこのようにふにゃふにゃしていません。小さい頃によく走り回って鍛えたからでしょうか。まるで水銀のような比重の高いタイプのねこになってしまいました。

体重は昨年12月の測定で7.9㎏。前よりはちょっと減ったとパートナーは言いますが、まあこんなくらいです。比重が高い分だけ、どしっと来ますよ。前脚で膝を踏まれたときなんて、一瞬うっと来るくらい。もうちょっとしなやかに歩かんかい。

かくして、今日もあずきはのっしのっしと、あたりを闊歩しているのです。はい。

2009年1月4日日曜日

改めてご紹介(1)


ねこフリークのみなさま、お元気でお過ごしでしょうか。

この間、年賀状などで拙ブログをご覧くださっている話を聴き、大変嬉しく思っています(書き込みもしてほしいなあ)。その際、「あずきちゃんがチーフなんですね」と、あずきが年長で、また女の子と思われていたり、とありましたので、改めて拙宅のメンバーを順にご紹介したいと思いました(ブログネタ稼ぎだったりして)。

きょうは年長のきなこ。1998年9月に、前にいた大学で出会いました。名前と見た目が違うのになぜ、と思われる方もおられるでしょうが、実はこの仔の数日前に別の仔猫を保護し、きなこ色だったので、そう命名したのです。

家に連れてきて3日後、仔猫は往々にして恐いもの知らず、先代のきなこも他聞に漏れず犬餌の近くにいた拙宅の犬、Maiの方に向かっていったようです(誰もその場を見ていないのであくまでも推測ですが)。

Maiのうなり声とどすんという音に異変を感じて慌てて行くと、血を吐いた先代のきなこが倒れていました。おそらく、恐がりゆえに怒ったMaiが仔猫に体当たりしたのではないか(噛んだのではなく)と思います。

日曜日の夜9時を回っていました。掛かり付けの獣医さんまで先代のきなこをタオルで包んで連れて行き、無理をお願いして診てもらいましたが、時すでに遅し。25センチほどの仔は絶命してしまいました。こちらが目を離したことが原因、ほんとうに可哀想なことをしました。

このことがあってから、今のきなこを保護したのですが、場所も同じ、同じ時期に現れた、毛色は違うけれど似た雰囲気、から先代の仔の姉妹だろうと考え、いわば二代目きなこ、にした訳です。

そんなきなこも今年は11歳。すっかりメタボリックになりましたが、膝が空けばすぐ座りに来る甘えたです。先代のリベンジか、Maiの餌をよく食べます。わたしが自己紹介に使っている写真も、きなこですよ。

ねこ馬鹿話でした、はい。

2009年1月1日木曜日

新年おめでとうございます

2009年が明けました。こちらでは日中、少し雪交じりのお天気、ほどほどに寒くて心地よいです。

さて、私事ですが、いよいよ四十路も後半、相手にいっそう届く言葉を紡ぎ出すべく、精進したいと思います。また、よい出会いに恵まれることを願っています。

みなさんの健康とご活躍を祈ります。楽しく力を抜きつつ、ともに頑張りましょう。