2009年9月28日月曜日

「相撲は神事でもある。単なるスポーツとしては考えてほしくない」

大相撲の秋場所千秋楽で優勝した朝青龍が、土俵でガッツポーズをとったことが問題となり、親方らが謝罪したという。

標題はある審議委員の言葉、とてもおもしろいなあと思う。

スポーツとは非日常という意味。神事もまあそういうところがあるから、神事かスポーツかの違いを議論しても仕方ない。だから、土俵で感情を露わにすることの是非について、意見が異なる状況にあるという理解でよいのではないだろうか。

ところ変わってマレーシアでは、ズボンをはいてレストランで食事をしていた女性が、わいせつ罪で逮捕された。脚の線が強調される服装はイスラムの教えに反するそうだ。

何だかんだと偉そうぶる口調の輩、自分の規範がナンボのもんかと考えてみい、と言いたいな。

まあいずれもええ加減なもんや、と笑い飛ばせればええんやけど、「これは特別や」なんて選民思想にはまったら、どこぞの国の「神風精神」がまたぞろ、ちゅうことやで。おっかないこっちゃ。

2009年9月27日日曜日

気づかせ屋

NHKスペシャル、ONの時代の2回目を見た。

長島さんのリハビリの様子に感じるところもあったが、我が意を得たりと思ったのは、王さんが福岡ダイエーホークス時代を振り返って、「監督やコーチは気づかせ屋」と話したくだりだ。

変わるには本人がそう思うしかない。回りの人間ができることは、「変わらなきゃ」と本人が思えるように刺激を与えることだ、という私の持論にぴったりくる発言だった。

巷のリーダーシップ論はいまなお、強力な指導者がみんなを導くという構図から離れず。いつでもリーダー待望論が現れかねない。これに対して、気づかせるというのは、あくまでも本人を中心に置いた考え方、周りは、メインではなくサブに過ぎない。しかし、とても重要なサブだ。

成人に対する教育だけでなく、あまねく人に影響を及ぼすとは、自分がそう思えるように環境を整えること、学校の教職員もまさにこの構図ではないだろうか。

気づくことのできる「ゆとり」を持たせるように、持てるように。忙しいとはまさに心を亡くすことですぞ。

2009年9月23日水曜日

公衆での居眠り

みなさま、またまたすっかりご無沙汰です。何かとあたふたしており、落ち着きません。

さて、みなさんは電車の中で居眠りをしますか。日本では日ごろ見慣れたともいえる光景、これは万国共通のこととは言えない、と思っていました。

前の大学で「大学における教授方法」の共同研究をした際、学生の授業中の居眠りの話から、語学の同僚から、フランスの学生で居眠りしているのを見たことがない、と聴き、そういえばドイツでも大学あるいは電車のなかで眠る人を見たことがないなあと思っていたから。ヨーロッパの人はおしなべてそうなのかしらん、と何となく感じていたのです。

先日、京都の地下鉄で白人の女性二人が目を瞑っているところを見ました。眠っているかどうかまではわかりませんが、目を閉じているだけでも珍しいと思うわたしにはとても新鮮でしたね。

「朱に交われば…」のように、周りの行動パターンに染まってしまうのかしら。

「なぜ公衆の面前で居眠りできるのか/できないのか」…おもしろいテーマだと思われませんか。

2009年9月6日日曜日

生まれ変わる間隔としての暦

NHKで、式年遷宮にまつわるドキュメントを観た。

伊勢神宮で行われる、20「年に一回の行事で神殿を移す行事ということは知っていたが、神宝という神に供えられる刀や馬の飾りといったものまで新たに作り直されるとは全く知らず。これらもすべて20年に1度新たに変わるのだ。

多くの神宝のなか、刀を納める方のことばが印象に残った。長野に住む鍛冶を務めるこの方は、親でもある先代からこの伊勢神宮の仕事を受け継いだが、式年遷宮を機に新しく刀を納める過程で、清新の気を得る、つまり生まれ変わる気持ちになると言われたことだ。

非言語コミュニケーションのうち、時間に注目すれば、われわれは自分の暦をどのように刻んでいるのかを取り上げることができる。たとえば、1年や1日をサイクルにしている人は多いだろう。

伊勢神宮で20年を単位に時間が流れているとすると、それはどれほどの長さなのか。物心ついてから経験できる20年の間隔はせいぜい3回、この3回に自分の物語を成就させるものと見ることもできるだろう。

世に忙しい、余裕がないとよく聞く。確かにそうなのだろうが、だからこそたずねたい。あなたの時間のリズムあるいはサイクルはどのようだろうかと。 自分の持ちうる時間はどのように組み立てられており、今どの辺りまでやってきたのかと。

人は太陽と死を見つめることができない、とある人は述べたそうだが、知らないうちに自分が刻んでいる時間の間隔、そして感覚を問い直すことは、死を見つめることでもある。それは急ぐ人生といえども有意義な作業かと思う。

2009年9月3日木曜日

抑えられない感情の表出

ようやく秋風が流れはじめ、過ごしやすくなってきましたね。

さて、コミュニケーションについて学びたいとお話していましたが、この中でも、狭義の言葉を必ずしも介さないコミュニケーション、非言語的なコミュニケーションを興味深く思っています。

先日の電車で向こう正面に座っていた女性。なぜかニコニコと笑顔が止みません。楽しかったことを思い出しているのかな、それともこれから誰かと会うのかな。ひとさまの笑顔に出会うと、まったく無関係な自分なのに、なぜかこちらも楽しくなりますね。感染するというやつです。

こうした感情の表出は狙ってやるとは言いがたく、否が応でもそうなってしまうという面がありますね。だから、他者はその様子をまさにそのとおりだと受け止める。つまり、非言語的メッセージの嘘はなかなかつけないということです。

そして、どうしてかはわからないけれど、楽しげな様子は周りの人もおおよそ楽しい気持ちにしてくれます。反対の人もたまにいますが。

この二つを足し算しましょう。はい、周りを楽しくするには、自分で楽しいな、幸せだなと「本当に」思えることが大切なようです。

そうなんや。自分を楽しくすることが、他者にもいいってことなんやね。