2010年4月30日金曜日

診断の能力と自信

犬フリークのみなさま、こんばんは。

うちの犬Maiのことでは、お騒がせをしています。

前回ご報告をしたように、後ろ右脚が腫れて1ヶ月半近く、獣医に行きたくない、とはいえ行かなければならない、とジレンマが強まり、改めてインターネットで獣医さんを探しました。

最初は、奈良で36年もやっている獣医さん、しっかりとした印象は、HPが充実していることや院長さんの挨拶文から感じられます。

そこから飛んで拙宅の近隣の獣医さんへ。その奈良にて研修を経た方です。さらに、その近くの獣医さんへ。

季節はフィラリアの接種、わんにゃんランドかと思うほどの混みぶりでしたが、まだ若手と思われる獣医さんに丁寧に診てもらいました。触診、レントゲン、血液検査、超音波検査と経て、貧血状態と言ってよいこと、腎臓機能の問題があること、生検をしないと診断はできないもののある病気が疑われることなどを丁寧に説明いただきました。

大いに感じたのは、診断の場面。後ろにスーパーバイザーとして院長先生がいたこともあったのでしょうが、言えること、言えないことのメリハリがあること、とりあえず判断できることについての細かな説明、同様の病症の例、今後の治療方針など、多面的に話をしてもらったように感じています。経験が伴わねばできないこともあるでしょうが、獣医学の知識と先例を中心に、ただし断言は避けて、かつ飼い主が「それは気づかなかった」と思わせるような内容がありました。

ひるがえって、2つ前のヤブ獣医は、血液検査をしても「この数値は高いですね」以上のことは言えなかったように記憶しています。それだけやったら素人が見てもわかるって。その数値の意味は? 今後どんな可能性が? と聞きたいのに、飼い主の質問に応じてくれたのは、獣医ではなくアシスタントの夫人。「辛いものは食べさせないとか…」。はあ、風呂屋談義をしにきてんのとちゃうぞ。いい加減にしろ。

返す返す、そんなトンデモ獣医に3回も通ってしまった。つくづく情けない(愚痴の繰り返し、どうぞお許しを)。

このヤブ獣医が、他の意見も求めたいからとレントゲン写真を借りに行ったら、突如態度を硬化させて、「うちはそういう方針ではありません。それ以上は何も話すことはありません」と暴言を放ったところだ。いま思えば、よほど診断に自信がなかったのだと思う。京都府獣医師会にもこのエピソードは伝えた。これに対して、きょう訪れた獣医さんでは、こちらが何も言っていないのに、精算の際に「これをどうぞ」とさっき撮ったレントゲン写真を持ち帰らせてくれた。こんなところに最初から来ていればよかったなあ…。

診断(diagnose)と推計(prognose)、どんな治療をするかをよりよく選ぶために、適切な診断を。それなくしては、先々のことが真っ暗だろう。

口調も語尾も変わり、すみません。いつものことですが、飼い主バカと諦めてください。教育学者として思うのは、いつも学校のありようについて。教育側はどんな診断能力をもっているのだろうか、またその担保はいかに? 専門職としての教職を問う角度は、まだまだあるように感じています。 

2010年4月23日金曜日

学校ごとにアビトゥアの成績公開へ

ドイツでも、学校教育の説明責任論とあいまって、情報公開請求が進められている。

特定の学校が差別されることから保護すべきだという議論を越えて、バーデン-ヴルテンベルク州の行政裁判所は4月22日、教育雑誌"Focus Schule"からの訴えを全面的に認めた。これにより州文部省は、2006年から2009年のそれぞれのギムナジウムにおけるアビトゥア(大学入学資格)の平均点および、学年の目標に達しなかった生徒の比率について公表することを義務づけられることになった。

同様に文部省は、すべての基幹学校、実科学校、ギムナジウムにおいて、予定された教育修了資格を得ずに学校を去った生徒の比率についても、学校ごとに示さなければならなくなったのである。(原文は、http://www.stuttgarter-zeitung.de/stz/page/2463715_0_1015_--focus-schule-land-soll-schuldaten-herausgeben.html)

日本でも似たような議論はあるが、学校が目指すべきゴールがあまりはっきりしていないので、評価する際の「ものさし」が一定しないという問題がある。この点、ドイツではAbiturを含む、州による教育修了資格試験が存在するので、それに向かって頑張ればよいという論理は可能だ。

日本の法規にも定められている、いわゆる落第(「 第57条 小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当たつては、児童の平素の成績を評価して、これを定めなければならない。 第58条 校長は、小学校の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない」学校教育法施行規則など)。これをしっかり機能させてはどうだろうか。

こうした「割り切り」のできない辺りが、「日本的」な良さかもしれないのだけれど。

2010年4月21日水曜日

「センセイ、イツ、リタイアシマスカ?」

ある留学生からの一言。

リタイアして、あちこち旅行に行ったらいいのでは、という趣旨だったが、けっこう堪えた。

もうそういう時期にさしかかっているのかもしれないな。「自分の第三章はいかに?」と考えはじめてもいるので、より強く感じたのかもしれない。

昔ならばそろそろ退職が視野に入り、今でも十分に早期退職組に含まれうるくらいの年代に入った。まとめをすべき時を迎えたとは言えるだろう。

あたふたと過ごしているのは、何となく感じる「残り時間」を気にしての焦りか。本人としては、おもしろいと思えることが絶えず生まれるのを、大いに楽しんでいるつもりなのだけれど。

2010年4月16日金曜日

首輪が要らなくなり…


犬フリークのみなさま、お久しぶりです。

三寒四温という季節はとうに過ぎたはずなのに、寒い日が続き、コートもクリーニングに出せずというところです。

飼い主バカはいつものことで恐縮ですが、拙宅の犬Maiの近況報告を少し申し上げます。

1月下旬に右うしろ脚を上げて歩く様子に驚き、獣医を訪れましたが、原因は判断できず(いつまでも愚痴めいて嫌らしいことしきりですが、2軒目の獣医は「寒いからということもありますね」と曰うたのだ。はあ)。3軒目にして、丁寧な獣医さんにあたったはもののレントゲンを撮って、大腿骨が折れていることがわかったまで。

その2ヶ月後、3月に再度訪れ、骨が少しずつ再生していることまでは確認。ちょっと喜んだのですが、その後、くだんの脚が猛烈に腫れてきました。いわゆるパンパン状態です。ただし、出血ほか体内液が滲んでくるということはなく、(聞けないので確かなことは言えないのですが)痛がっている様子もありません。太もも以外であればマッサージめいたことをしても様子が変わることはなく普通のようです。

家人はすっかり獣医不信になっているので、連れて行く気にはならず、家で様子見の状況が続いています。そうこうするうちに、元気な左後ろ脚に負担がかかりすぎているためか、こちらも骨折ではないにしても弱ってきたのか、わかりませんが、よろよろし始めました。

いまや、リードをつける必要がないので首輪を外し、古Tシャツを使って家人が作った「特製シャツ」を着せています。立っているとどうしても左側に傾き、下手をすると転倒するので、それを支えるべくシャツの結び目、2箇所を人間が持って、トイレに連れて行くという格好です。

現在、外に連れ出してもウン十歩も歩かず。ただし、3本脚で立つこと自体は大丈夫なようですが。トイレの際もなかなか踏ん張れないので、回数も少なくという感じです。家の中では、ほぼ寝っぱなしですね。

それでも、(飼い主の欲目かもしれませんが)視線ははっきりしているようだし、近づいてきたネコたちに唸りもします。こういう緊張は対老化によいのかもしれません。また、同じ方向で寝ていると痛いのか、ときどきは立ち上がって水を飲みに行きますよ。でも、食欲はちょっと落ちているかな。

来月には16歳。まあのんびりペースでやってほしいものです。プチ介護生活をしてわかるのは、この仔の12㎏という軽さに大いに助けられているということ。重いと大変なのは人間もいっしょやろうなあ。

「つまづく」と「つまずく」

今朝のNHKニュースで、「つまづく」というテロップを見た。

辞書的には、「つまずく」がまだ正統のように思うけれど、だんだんと標準が変わってきたのだろう。

同じようなものに、「少しずつ」と「少しづつ」がある。ある人の説明では、戦前は「ずつ」だったものを戦後になって「づつ」に変えたという。実にややこしい。

そう言えば、「全然」が否定的な意味合いと一緒でなければ遣えない(「全然できない」といった)といったルールもここ一世紀以内の「最近」のことで、夏目漱石の坊っちゃん(1906年)には「一体生徒が全然悪るいです」と肯定的に書かれているという。

ことほどさように、言葉の使い方や言葉そのものが比較的早いスピードで変化するものである。にもかかわらず、学校などで、これが正しい、これは間違い、と教えようとすること自体が問題ではないだろうか。

「正解」「正答」と言えるものもそれなりにあるのだろうが、数十年、早ければ数年あるいは半年のうちに消費されて消えてしまう「常識」。その数倍も生きようという人間にとって「基礎・基本」とは、「いずれ変わる」ということを学んでおくこと、とも見なせるだろう。その人にとっての得心や納得は、与えられた命の長さに応じるのだから。

「こっちが正しい」という主張は、「そういう見方もある」というくらいに収まってくれていれば可愛いが、振り回されるとしんどいものだ。対話や理解は、違うことを前提に成り立つとも言える。違いを楽しめるゆとりや相対感覚を持ちたいと思う。

2010年4月1日木曜日

惨劇の場となった実科学校の校長、引退へ

およそ1年前のブログで紹介したが、昨年3月、ドイツの南西部の小さな街WinnendenにあるAlbertville-Schule実科学校(5~10学年)で、前代未聞の銃乱射事件が起きた。

同校を2年前に卒業した元生徒で17歳だった犯人の男は、黒づくめの格好で現れ、授業中の生徒や教員、試補教員らに銃を発砲。逃走中にも市民を撃って、合わせて17人を殺害し、さいごは警察官によって射殺された。私の知り合いの友人は、この事件で10代半ばの子どもを失ったという。とても悲しくてやりきれない。

そしてこの1年間、先頭に立ってきたのが、同校校長のAstrid Hahn氏であった。58歳のこの女性は、この学校の校長として7年間を務めたが、「この1年が10年のように思われる」ほどの激務から、新校舎の完成である2011年を待たずに、健康上の理由から年度末(9月)に引退すると、このたび表明したのである。

新たな校長の公募が行われることになるが、教員配置を担うStuttgart地方司令部の部長は「コンフリクト・マネジメントの力が重要で、さまざまな状況に柔軟であること、そして感情移入が幅広くできること」と次の校長に求めるポイントを挙げる。「良い人がいればよいのだが」。

あまりにも悲惨な事件を思い出すとともに、日本とは大きく異なる校長の採用と勤務のあり方についても、改めて確かめる記事だった。

どんな人が後任に来るのだろうか。

[記事は、http://www.stuttgarter-zeitung.de/stz/page/2439301_0_3005_-winnenden-direktorin-verlaesst-albertville-schule.html]