2008年11月24日月曜日

紅葉狩りに行きました

年に1度、およそ6つの大学の学部生や大学院生たちの集まる会があります。

自分たちが執筆中の論文を報告し、ふだん指導を受けている教員とは別の角度から他大学の教員に意見をもらい、あるいは学生同士が意見をたたかわせる「合同卒論・修論研究会」です。

ことしは23回目、四半世紀まであと一歩というところまで続く、息の長い集いになっています。

輪番で各大学がホスト役を務めるのですが、今回は京都でお世話を申し上げました。6つの大学から参加した学生と教員は50数名、1日目と3日目の議論の時間を挟んで、2日目は今真っ盛りのグループ別観光としました。

予想はしていたものの、とんでもない混みようです。竜安寺から金閣寺の間、バス停3つなのに、バスは何と1時間もかかりましたから。嵐山に行ったグループは渡月橋から人がこぼれ落ちそうだったとのこと。このシーズンですからやむを得ませんが。

とまれ、お寺の中に入ればそれなりの静寂と紅葉を楽しむことができました。侘びさびを解するには遠く及びませんが、それでもいいなあと染み入るものがあります。癒されました。

遠路来てくださったみなさん、ありがとうございました。来年もまた会えることを楽しみにしています。

2008年11月21日金曜日

コミュニケーション力が低下したわけじゃない

子どもの暴力行為が5万3000件と過去最高を更新したと報道された。これ自体は憂うべきことかもしれないが、またぞろの「コミュニケーション力が低下している」とのコメントには疑問だ。

携帯電話やパソコンを介したネット社会への参加は、個人の行動範囲を広げる分、空間的に近い人々との関係を薄める。電車で小さなモニターを覗いてニュースを眺めているおじさんにとって、隣に座っている人は自分に無関係だ。

人の認知資源には限りがあるから、遠くのことに関心が向けば、その分だけ身近なことには関心を向けられなくなる。「会社人間」だった人が定年後、「ご近所デビュー」するのは大変だし、マンションで近隣に挨拶をする必要がないのは、室内でネットにつながっているからでもある。

子どもにはかれらなりの事情があるのだろうが、学級や学校に自分を帰属させる余地が少なくなる分だけ、愛着も減っていくのは当然だろう。自分が何者かを説明してくれる場をそこに求めなくてもよいのだから。

こうしてモバイルな状態が広がっていくとすれば、求められるのは、これまでの「自分たち語」ではなく「いろんな世界語」でコミュニケーションできる力だろう。これは空間的な話だけでない、それぞれが自分の世界を持っているという前提に立って、文脈を共有するところから話を始めなければ、伝わりようもない、ということを理解し、行動できる能力である。

昔の人のコミュニケーション力が高かった訳では必ずしもない。移動性(mobility)が低い時代にあっては、「自分たち語」がそのまま「世界語」でありえた(自分と出会うほとんどの人とわかりあえた)から、話ことばよりも、身振り手振りあるいは隠語のようなやりとりで互いが了解できたということだ。今風に考えれば、ひどくローカルな話で、むしろコミュニケーション力が低かったとも言える(だから、外国人に出会うとひどく緊張したのだろう)。

そうした「濃口」の人間関係から離れて、地球中の人々と24時間やりとりできる状況になった現在、問われるのは「薄口」の人間関係を支えるコミュニケーション力である。「近くにいるから自分と同じように考えている」とは思わずに、相手に応じるべく「さぐり合い」のできる能力、これは結構くたびれることだろう。

コミュニケーション過剰にならないためにも、ときに自分一人になれる場をもつこと。子どもの暴力問題に戻るならば、ケータイやインターネット、あるいは習い事や塾といった複数の対人関係のチャンネルを減らすことが、急がば回れ、かもしれない。

2008年11月19日水曜日

読み間違えた!

学習心理学や認知心理学の格好のネタになるような経験をしました。

「議員定数削減率先公約せよ」という、縦二行の新聞の投書欄の見出しです。
「削減率」と読んでしまったのでもうだめ。先公約?あれっ? 授業中のことですから格好の悪いこと…。学生が教えてくれました。

「削減」と「率先」を分けられなかったなんて、そもそも自分で用意した資料なのに…いやはや。

感心しても何ですが、まさにコンテキストとことばをセットで人は理解する、ということがよくわかりました。

N.ルーマンの指摘した「コミュニケーションの自己準拠」-人は状況的なコンテキストがあってこそコミュニケーションができ、そしてコミュニケーションができるからこそ状況的なコミュニケーションが構築されるということ、に、この小さなケースもつながっているなと関心した次第です。

それにしても恥ずかしかったなあ。

2008年11月16日日曜日

クルマの持つエネルギーの大きさ

再び、車のひき逃げ、しかも被害者を引きずり、死に至らせた事件が大阪で起こった。
飲酒運転をしていた41歳の男が、16歳の新聞配達の少年をはねて逃走。何と6キロも引きずったという。

飲酒運転等を減らすために導入された道路交通法の厳罰化。飲酒運転は確実に減っているが、他方で被害者を救助せず逃げ去るケースも増えているそうだ。ペナルティが重くなった分、逃れたい気持ちが強まるという、パラドクシカルな解釈も成り立つだろう。

だが想像するに、事故を起こしたら「この場合は罰がどれほどだから…」と冷静に考えるゆとりはとてもなく、無我夢中で「現場から離れたい」とばかり考えるのではないだろうか。その中を落ち着いて行動できる人こそ、少数でもむべなるかなと思う。

改めて考えてみれば、1㌧以上もあるような金属の固まりが、時速何十㎞というスピードで走っているのだから、衝突したときのエネルギーの大きさはとてつもないものだ。そんなものと生身の人間が同じ空間を共同利用していることじたいに無理がある、とも言えるだろう。にもかかわらず、そんなことを普段は意識しにくい点こそ、慣れの恐さだ。

「不思議だなあ」と思える能力、それは学問上のことのみならず、日常生活でも「役に立つ」ことと強く思わされる。

2008年11月14日金曜日

キャリアが自分の辞書をつくる

先日、ある県の管理職研修にお邪魔しました。ここずっと、わたしは「コミュニケーションと学校経営」というテーマにはまっているため、研修内容もその彩りの濃いものです。

書き言葉と話し言葉のくだりで、ふと「この言葉をご存じですか」と尋ねてみました。-接遇-

80人ほどの参加者がいましたが、わかったと手を挙げたのはわずか2人。これまでも尋ねたことがあったので、その少なさに驚きはしませんでした。が、それでもこの言葉が教員の辞書にほぼないという事実は注目に値するのではないでしょうか。

学校に帰ったら
事務職の方に
聞いてみてください、と述べましたが、おそらくかれらは「えっ、知らないんですか」と、びっくりすることでしょう。

机を並べていても、これほど基本的な言葉を知っている人と知らない人がいるということ、そして、教育する立場の人間には、これまで接遇が求められてこなかったのだなあ、と知ることができます。

自分の辞書の偏りに気づくこと、またそれを是正すべく幅広い人と(せめて学校教育関係者だけでも)対話を試みること、そのおもしろさ、教えることに懸命すぎる方にはなかなか伝わっていないのではないでしょうか。


2008年11月13日木曜日

恐るべし舌禍

兵庫県知事が発言したという「関東大震災がチャンス」という表現。おせじにも上品とは言えないが、その趣旨はおおよそわかる。

ならば、チャンスと言わずに、契機とか背景とか、もう少し中立的な言葉を遣えばよかったのに…。
とりわけ外来語は、輸入されたあとに意味が変わることがあるので、適切に扱うのがなかなか難しいと思う。

たとえば、ドイツ語からの外来語を挙げれば、カルテ(Karte):広くカードの意味だが、輸入の経緯からか日本ではもっぱら医学用語。あるいは、ゲレンデ (Gelaende):英語のgroundにほぼ相当する言葉だろうが、なぜか日本語では、スキー場にのみに遣われる傾向あり。

かくも言葉が一人歩きする(可能性と)危険性を知ることができる。「言葉の世界の住人」である教育関係者も日頃のトレーニングを通じて、短い時間の判断でよりよい言葉選びができるようにありたいと思う。ことばの象徴的意味の強いことを感じさせられた事例だった。

2008年11月12日水曜日

ブログの引っ越しをしました。

ご覧下さっているみなさま、

このたび拙ブログをこちらに引っ越しすることとなりました。メールをgoogleに移したことをきっかけに、一度こちらで揃えてみようかなと思った次第です。

ここ数日、すっかり冷え込みました。
昨日は終日、校長先生との研修でしたが、会場にまだ暖房が入らず、事実上の冷房状態で、立ってうろうろする講師はともかく、座りっぱなしの受講者には、さぞ寒かったと思います。どうか風邪など召されませんように。

これからも変わらず、ご覧くだされば幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。