2009年2月28日土曜日

学校の正当性の低下

昨日のニュース、「文部科学省は、不登校の高校生がフリースクールなど学校外の施設に通った日数を、在籍高校の校長の判断で出席日数に加えることができるようにすることを決めた。09年度から適用。同省によると、不登校の高校生は07年度で約5万3000人。うち約1000人が教育委員会の設置する教育支援センター(適応指導教室)や、フリース クールなどの民間団体・施設で相談や指導を受けている。「若者の社会的自立のためにも不登校対策の充実が必要」として支援措置を決めた。学校外の施設へ の通学定期券も発行されるよう、鉄道事業者などと交渉している」(毎日新聞、2009.2.27 抜粋)。

小・中学校については1992年からこのように対応しており、それが拡充された格好になるが、義務教育でない高校についても同じ扱いをすることになるとは…。とても残念な思いがする。

むろん、学校が生徒を「見捨てない」という気概を持って、少しでも子どもたちが向学校的であることを願うということもわからなくはない。その上で、「これって、学校の存立基盤を自分で掘り起こしていない?」と思うことも事実だ。

学生に学校制度の講義をするときに付け加える。「高校には不登校はないのです。なぜなら高校は行かなくてもよい学校段階なのだから。だからこそニュースにはカギカッコをつけて、『不登校』って書いてあるでしょう」って。

なのに、高校で不登校、それを他の施設に通ったら登校に読み替えるっていったい?
 
一昨年だったろうか、高校での未履修問題が騒ぎとなった。結局、「集中授業」などで単位認定をしたという不細工な終わり方をしたが、高校を卒業したというからにはこれだけのことを習得した、ということについて文部科学省や教育委員会、もちろん学校も主張するつもりがないから、どこかでなあなあにしたいと思った結果だろう。

ことほどさように、学校が「誰が何と言おうとこれが卒業ラインなの」と矜持を保つことはなく、できるだけ緩くすくい上げようとするし、教育行政機関もなるべくその方向を活かそうとする。それで上手く行けばよいが、そうはならない。「真っ当に」高校に通い続けている生徒は割が合わないではないか。そして、その不公平は生徒にとってよくないだけでなく、学校の「もっともらしさ」を危うくする点でまずいのである。

制度が官僚的に淡々と運用されず、関係者の恣意に委ねられること、これは文字通り「お手盛り」となる。教育は他の領域以上に情緒的であるからこそ、そこに担保される専門性はより高くなければならないし、それを欠いては、なぜ学校に行くのかをいっそう説明できなくなる。

義務教育段階でも原級留置が法定されているのにこれが運用されず、その一方で「学力向上」が声高に叫ばれるというアンバランスさをそのままにして、「信頼される学校」などというものが実現できるのだろうか。

児童・生徒にどんな「力」を付けさせてこそ卒業に値すると、教育行政機関と学校関係者は考えているのだろうか。その言動の無理さ、厳しくいえばいい加減さを認め、学校の入学と卒業の原則に立ち返るべき時期に、とうに来ているのではないだろうか。

2009年2月16日月曜日

シンガポールの「割り切り」

NHK「沸騰都市、シンガポール-世界の頭脳を呼び寄せろ」を観た。

水資源がないという弱みを生かして、助成金や研究費をテコに水関係の会社や研究者を誘致していることに例示されるように、ここでは国家が率先して優秀な人材を海外から集めることで、「豊かさ」を追求している様子がよくわかる報道だった。

外国から招聘された研究者や会社経営など限られた職種は厚遇されているものの
査定がきわめて厳しく、一流研究誌に論文が掲載されないとポストを追われかねない状況だ。一般の外国人労働者には人材管理会社への登録が義務づけられるが、かといって仕事が保証されるわけではない。しかも滞在許可は2年間。

さらに驚いたのは、半年ごとに外国人労働者の女性が妊娠検査を義務づけられていること。この国で出産することのないように、シンガポール人以外の人口が増えないようにという明確なメッセージが読み取れる。


世界的な経済危機のなか外国人労働者への就業が進んでいないことを新聞記者に質問された現首相は言う。「はっきり言って、外国人は調整弁です」と。この首相が率いる
政党(人民行動党)は議会84議席中、82議席を占める。反対勢力はない。

シンガポール人のための国づくりという目標は明確だ。それが世界全体のことを考えていなくても。あるいは、そうしたことはおよそ無理なのだから、自分たちのできるところに専念しようという考えともいえる。既存の国家の
「純粋さ」を守ろうとするシンガポールだ。

たくさんの外国人を「お客さん労働者」として、そして難民として長い間にわたって受け入れてきたドイツ。「学力向上」ひいては国民的統合を図ろうとするも難しい面を抱えている。学校とコミュニケーションの難しい保護者、家族主義ゆえにドイツ語をなかなか獲得できない子ども、文化的背景を伴う衝突…。

こんな国々にあって日本のこれからは? ここでも次の局面がもう目前に迫っていることを感じさせられる。

2009年2月8日日曜日

「ネットいじめ」の次の局面

前のブログにて、Cyber-Mobbing(インターネットを通じたいじめ)がドイツでも深刻という声を聞いたと書いた。

この言葉をたどってドイツ語のWikipediaを読んでみたら、生徒や学生による教員に関する匿名での書き込み、という記述があることを知った。大学でも学生による教員の「評価」のサイトのあり、それが暴走する危険性を指摘しているのだ。

開けてみると実に詳細なデータになっており、驚かされる。試しに、個人的に知っているある教授を探すと、結構な数の書き込みがあった。数値評価と自由記述の2つからなっており、前者では「面倒見のよさ」「公正さ」「理解のしやすさ」などがあり、最後に「お勧め」か否かをつけるようになっている。もちろん、平均スコアとお勧め率も弾かれている。

自由記述欄には、何も書かれていない回答も多いが、長い文章も結構ある。ほとんど理解できない、矛盾している、必修だったから仕方なくとった…と厳しい書き込みがある一方、この大学が同教授を得たことは幸いだ、はじめは混乱したが徐々に面白さがわかってきた、何といっても大学なのだからこれでよい…とやや少なめながら強い評価も見える。私の知る同教授の姿とおおむね重なるので、それなりの評価とも言えようが、強い口調の否定的書き込みには辟易だ。

(わたしの不勉強かもしれないが)日本では「ネットいじめ」はまだ生徒たちの間に留まっているように思う。しかし、この次の局面は、教員に矛先が向けられることだろう。「教育問題」としてこれを扱える時間はあまり残されていないのかもしれない。

ネット社会が不可避であるなら、そこでの「市民性」をいかに育てるかが問われるべきだろう。携帯電話を排除したり利用させないようにするだけでなく(もちろん、飲酒や喫煙、投票権と同じく、年齢格差はあって然るべき項目もあるだろうが)、それらとどう付き合うのか、匿名性をなくすことができない社会でいかにうまく人間関係を作っているのか、試され、次第に定式化されていくべきだろう。

群衆が存在しなかったはるか昔、たとえば中世社会はみんなが顔見知りだった。そこには匿名性のないゆえの良さと同時に、「しんどさ」もきっとあったことだろう。だからこそ、キリスト教会では懺悔室を設け、建前としての匿名性を確保したうえで、人々の告白を促すことができたのである。これに対して、現代社会では匿名性が席巻しており、それが従来の「顔や身体は見える」状態を一挙に越えた水準に至っているために、混乱が生じている。

自分が見えにくい社会では抑制がききにくい(「旅の恥はかきすて」)。だからこそ、これまでそれなりに馴染んできた商品経済社会の水準から、徐々に匿名性高くとも関係を維持、発展させられるよう経験を積むことが必要となる。

「ネットいじめ」問題は社会の鏡の一つに過ぎない。大学を含む教員は、この次の局面を強く心づもりしなければならないと思う。

2009年2月7日土曜日

学校の時間割の変化

この数年間のドイツの学校の大きな変化を挙げるなら、学校の時間割と言ってよいでしょう。

一例ですが、写真の基幹学校(Hauptschule)の黒板にあるように、SZと略される「宿題の時間」で取り組む課題が示され、1週間のうちの数日は、この時間が時間割内に設けられています。

生徒たちに聞くと、おおよその宿題はこの時間に終えてしまえるそうで、これ以外に家で勉強をすることはあまりない様子。基本的に学校で宿題をしてしまうということなのでしょう。

基礎学校4年生を終えて分化する3種類の中等学校にあって、基幹学校は学力上、決して上位と言えない生徒が多い状況が関係しているのかもしれません。とはいえ、授業が終わってから、学校でこうした時間が設けられ、その面倒を見るスタッフが退職した教員など「外部」の人によって担われる状況は、これまでの半日学校に替わる全日学校への変化を示しているように思います。

なお、学校での補習を担うNachhilfeという家庭教師や塾のことも生徒から聞きました。この9aクラス23人のうち、こうしたところに通っているのは3人、どちらかといえば苦手な教科の克服のために行くようです。だいたいは1週間に2回、1回は1時間くらいとのこと。日本の学習塾と比べたら、ずいぶんと違うようにも思います。なぜ日本は公的な学校だけで済まないのでしょう。「学校の教育力」が小さいため、あるいはそれ以上を求める人が多いからでしょうか。

「同じかもしれない」からスタートしてみる

みなさま、お久しぶりです。この10日ほどドイツに出かけていたため、更新に手が回りませんでした。南西ドイツの朝はマイナス3度くらい。屋内はシャツ一枚ちょっとで過ごせるのですが、外は寒かったです。

いきなり大上段な物言いで恐縮ですが、研究が何かを発見しようとする行為であることから、そこでは「こうなってるのは?」という仮説や予想が前提となります。探索的研究といって予断を持たずに観察、分析するという研究スタイルもありますが、大なり小なり予想のない研究はあまりないといってよいでしょう。

そこに観察者の主観や願いの混じる余地が生まれます。広く社会を見ようとする立場にあっては、社会に自分が含まれることからまま自分を見ることでもあり、その余地はいっそう大きくなりがちです。イデオロギーが生まれ、それが自己正当化となりがちなのは、自然科学と大きく異なる点でしょう。

この主観がどこからスタートするのか、乱暴に言えばそのあり方によって研究の半分以上は決まるように思うのです。自分が思うことを主張するために材料を探してくる、社会科学系の研究はどうしてもそうした趣きや偏りから逃れられない、と私は考えています。

ならば、最初の段階において、「ここが違うのではないか」と考えるのとおなじように、「ここは同じではないか」と考えるスタイルをとったらどうだろうか。こんなことをドイツで考えました。

ある中等学校で、9年生の女生徒4人と1時間半ほど話をする機会があり、いじめ(Mobbing)の様子が、嘲りや侮辱、たまに暴力はあるものの、無視や悪口があまりないと彼らが語っていたので、日本のそれと違うのではと一度は思ったのです。ところが、あとで同校にも職場を持つソーシャルワーカーと話をしたら、彼女たちはいわゆる良い子でいじめ問題とは少し距離のあること、またいま深刻なのは「ネットいじめ」(cyber-Mobbing)なのだとも聞きました。もしそうならば、日本で言われている状況に近いことになります。地球のほぼ裏側でも同じようなことがまま起きているのかも、と感じさせられた次第です。

観察者の主観から、場所が変わると、どうしても「違うのではないか」と考える傾向が強まりますが、それを認めつつ「同じではないか」と予想して対象を見てみることも大切ではないだろうか。その上でなお「違う」と思われることは何か、それが「出羽の守」と違う研究になるのでは…。ドイツの学校を訪れながらそんなことを思っていました。