このごろコミュニケーションについて学びたいと思っている。
「学校の常識は社会の非常識」という言い方に、ほんの一部、真実味があるとすれば、それは教員の言語的・非言語的なコミュニケーションの状況から伺うことができると思うのだ。
たとえば、接遇という言葉。私の限られた経験に過ぎないが、ほとんどの教員はこの言葉を知らないように思う。いわゆる社会人になれば、一番に学ぶ言葉だろうが、この言葉を知らないままに何十年と過ぎてしまいかねない環境は一考に値するのではないだろうか。
きょうの小さな経験。
大学院の授業に遅れると現職の教員でもある学生から電話があった。学生の場合、氏名を名乗られるだけではこちらはわからない。たまたまかもしれないが、自分がどのように受け止められるかを想像しながらやりとりすることに、教員の一部の人はひょっとしたら慣れていないのかもしれない。対人関係づくりは教職で問われるもっとも根幹の力量かと思うのだが。
2 件のコメント:
同感です。
学生から送られてくる質問メール等で、「数百人の受講者のうちのひとりから担当の先生に送る手紙」としての用件を名実ともに備えているものは、1割にも満たないのが現状ですから。
以前はいちいち返信メールで苦言を呈していたのですが、もうその気力もなくなりました。
現職教員ですらそうなのですね。
国際化とか言われながら、若者のコミュニケーションは、逆に室内語化の度を深めているのかもしれません。
(うにさんの前任校でご一緒だった社教のIより)
みのりんさん、
お懐かしゅうございます。お元気でお過ごしですか。
みのりんさんのHPを、以前ときどき拝見していたのですが、この頃すっかり遠ざかっていました。N大学の住み心地はいかがでしょう。
学生からのメール、しっかりした君もいますが「それはないだろう」という場合も少なくありません。「気楽に送ることができる」と「不十分なままに送る」とは違うのですが、現職の教員でも必ずしもこの基準をクリアしているとは言えないように感じています。
拙ブログも、それこそ不十分なままに開陳しないよう自戒します。これからもどうぞよろしく。
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