2008年11月21日金曜日

コミュニケーション力が低下したわけじゃない

子どもの暴力行為が5万3000件と過去最高を更新したと報道された。これ自体は憂うべきことかもしれないが、またぞろの「コミュニケーション力が低下している」とのコメントには疑問だ。

携帯電話やパソコンを介したネット社会への参加は、個人の行動範囲を広げる分、空間的に近い人々との関係を薄める。電車で小さなモニターを覗いてニュースを眺めているおじさんにとって、隣に座っている人は自分に無関係だ。

人の認知資源には限りがあるから、遠くのことに関心が向けば、その分だけ身近なことには関心を向けられなくなる。「会社人間」だった人が定年後、「ご近所デビュー」するのは大変だし、マンションで近隣に挨拶をする必要がないのは、室内でネットにつながっているからでもある。

子どもにはかれらなりの事情があるのだろうが、学級や学校に自分を帰属させる余地が少なくなる分だけ、愛着も減っていくのは当然だろう。自分が何者かを説明してくれる場をそこに求めなくてもよいのだから。

こうしてモバイルな状態が広がっていくとすれば、求められるのは、これまでの「自分たち語」ではなく「いろんな世界語」でコミュニケーションできる力だろう。これは空間的な話だけでない、それぞれが自分の世界を持っているという前提に立って、文脈を共有するところから話を始めなければ、伝わりようもない、ということを理解し、行動できる能力である。

昔の人のコミュニケーション力が高かった訳では必ずしもない。移動性(mobility)が低い時代にあっては、「自分たち語」がそのまま「世界語」でありえた(自分と出会うほとんどの人とわかりあえた)から、話ことばよりも、身振り手振りあるいは隠語のようなやりとりで互いが了解できたということだ。今風に考えれば、ひどくローカルな話で、むしろコミュニケーション力が低かったとも言える(だから、外国人に出会うとひどく緊張したのだろう)。

そうした「濃口」の人間関係から離れて、地球中の人々と24時間やりとりできる状況になった現在、問われるのは「薄口」の人間関係を支えるコミュニケーション力である。「近くにいるから自分と同じように考えている」とは思わずに、相手に応じるべく「さぐり合い」のできる能力、これは結構くたびれることだろう。

コミュニケーション過剰にならないためにも、ときに自分一人になれる場をもつこと。子どもの暴力問題に戻るならば、ケータイやインターネット、あるいは習い事や塾といった複数の対人関係のチャンネルを減らすことが、急がば回れ、かもしれない。

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