2010年2月28日日曜日

なんとかやっております


犬フリークのみなさま、

先日、拙宅のMaiが大腿骨の骨折とご報告しました。

その後、右後ろ脚はもちろん不全なものの、次第に慣れてきたのか、3本脚+αでどうにか散歩に行っています。歩く距離は短いものですが。筋肉を落とすことがないようにと思っているので。

食欲もまずまずです。写真は、ドイツの友人から昨年末もらったペースト状になったソーセージの缶詰の残りをなめているところ(パンに塗ると実に美味です)、こういうのには目がありません。

いまも、自分のベッドと化した座布団(自分のベッドは別にあるのに)の上で、ストーブに当たりながら、よく眠っています。おおよそ快調なのでしょう。

振り返ってみれば、あの「問題」獣医のところに通っていた頃が絶不調だったようにも思われます。途中で行くのを止めて正解でした。自然治癒にまかせます。

たわいないお話しで恐縮。みなさまにも穏やかな時間が流れますように。

2010年2月27日土曜日

敗戦直後でもないかぎりは…

 民主党がマニフェストに掲げた「教員養成6年制」について、鈴木寛文部科学副大臣は27日、福井市内で講演し、6年制にこだわらず、「『4年プラスアル ファ』で少なくとも1年間、長期教育実習を抜本的に拡充する」と語った。教師になるまで従来の4年が6年に延びると学生の負担が増すなどの批判があり、マ ニフェストを修正して現実的な案を示した形だ。(朝日新聞、2010年2月27日)

新政権はあれこれの改革を公約にぶちあげたが、またも修正が行われそうだ。

仮に、長期教育実習のための学生の在学年限延長という話ならば、基本的には大学の問題ではなくなる。大学がお願いする学校の負担が問題なのだが…。「実習公害」と嫌がられないかなあ。あるいは、体よくボランティア要員にされたりして…。

教員養成を長期化するほど良いという論理を支えたのは、知識の基盤が安定しており、長期的に「知は力」と言えそうな時代だった。ところが現在、「10年ひと昔」はとうの昔の話となり、来年のことすらわからなくなっている状況だ。入職の前の段階で、「実践的」内容を長く学ぶ意義は何だろうか。

そこでは、早くから「現場」を知ることのマイナス面、職業的保守化や、現職になってからの研修への意欲の喪失(教えられ疲れ)を考えなければならない。長いほど良いという訳ではないのだ。

今回の教員養成改革論が、「大山鳴動して鼠一匹」になるかどうか、政局によるところ大だが、それと同時に、いろいろな既得権と経緯が絡む中、「改革」などというものがなされるはずもなく、またなされるべきでもない、という基本認識が大切ではないか、と強く思う。

いつの時代であれ、「改革論」とことあるごとに主張してきた御仁は少なくないが、教育学を含む社会科学は自然科学と違って、学問の力で制度を変える力は基本的にない、と見極めることが大切だろう。自然科学はそれにしたがい、あるいは踏まえることが人間のメリットになるが、社会がどのように構成されるかは、偶然に決まる部分が大きいし、仮に「法則」がわかったとしても、法則の適用範囲に自分が含まれていれば、そこから離れることは容易でない。「知らなければ良かった」に近い状況になるのだ。ましてや、学問的知見を踏まえて「改革」がなされたと言えるほどに、「改革」の時間は長く続かない。後智恵で「こうしたから、ああなったんだ」と、まるでヒットを打った選手を評する解説者のようなことをするのが関の山である。だったら、打つ前に言わんかい。ほんなら、2つが関係してたんやなって納得するわ。

もっとも例外はある。「大政奉還」や占領下といったきわめて非日常の状況下だ。それならば、時の為政者の意向によって、「非政治的な」チャンネルが生かされ、ある方向が強く示されることはありうる。しかしなが、こんな機会はそう望むことができるものでもないから、総じて「改革」は失敗する。

ひょっとしたら、そんな「改革」ではなく、派手さには欠けるが「静かな革命」が、あとになってみれば変革につながるキーとなっているのかもしれない。真実は細部に宿る、日々の営みを丁寧に見つめたいと、改めて思う。

2010年2月24日水曜日

2ヶ月あとのクリスマス


みなさま、ご無沙汰しています。

この間、あれこれの原稿書きにあたふたしており、またもこちらをなおざりにしてしまいました。余裕のあったのはお正月ちょっとくらいですね。

さて、きょうは嬉しいニュース。ドイツから写真のような小包が届きました。手作りクッキーや小物、クリスマスの贈り物です。

「ちょっと荷物を送ったけれど着いた?」と尋ねられてはいたのだけれど、何も来ないよと返事をしたまま、なんと2月も下旬にやってきました。

見ると、「税関検査のため開披されたものを、弊社にて再装しました」とシールがあり…。検査に引っかかっていたようです(それにしても、開披なんて単語、はじめて見たなあ)。どれほどの日数の足止めを食らったことやら。

遠い旅をしてちょっと時間は経ってしまったけれど、さっそくコーヒーでいただきました。美味しかったよ。

どうもありがとう。

2010年2月14日日曜日

伝統を有り難がる人へ

三重県桑名市の多度大社と同県東員町の猪名部(いなべ)神社で春に行われる県指定無形民俗文化財の「上げ馬神事」について、県文化財保護審議会が 神事を現地視察し、文化財指定にふさわしいか調査することが分かった。

南北朝時代に始まったとされる多度大社の神事は1978年、猪名部神社は2002年に文化財指定された。いずれの神事でも、急斜面を馬に乗って駆け上がり、駆け上がった馬の数で稲作などの豊凶を占う。馬を興奮させるため「つくる」と称してたたく習慣 があるほか、興奮剤を与えている可能性があるとして、96年ごろから動物愛護団体が「虐待だ」と批判している。また県教委によると、未成年者が飲酒して騎 手を務めている疑いもあるという。県教委は地元住民ら主催者側に改善を求めてきたが、「馬の不適切な扱いが改善されていない」と判断し、調査を決めた。(毎日新聞、2010.2.14 より)

言葉の魔力ともいうべきか、言葉そのものに価値の強い場合は要注意だ。上の記事では伝統、長くやっているから即、よいというわけではない。ましてや動物の「人権」(馬権など)や未成年の飲酒問題(未成年と成年の線引きが法的に決められたのは明治になってから)などが、遠く昔に取り上げられたはずもない。平安時代の貴族が男女平等じゃなかったと怒っても仕方ないのと同じだろう。そもそも、本当にそれほど長く続いてきたのかどうかも怪しい場合があるからなあ。

教育学の分野なら、古くは師弟同行、今なら連携・協働。古くは「なせばなる、なさねばならぬ、何事も…」、今なら「すべては子どものために」といった言葉。ことばはどうしても価値と無関係にはいられないけれど、それでも頑張って、より価値中立的であるように、お互い工夫しようよ。

ことばに騙されないこと、それを使っている他者や自分に酔わないこと、言葉でしかなかなか語れない教育の世界には高いハードルですぞ。

2010年2月11日木曜日

計画を立ててうまく行くためしがない

関西で放映されている、日曜日のNHK番組「ルソンの壺」をよく観る。

少し前の放映だが、京都の町屋再生のひとり、「くろちく」社長である黒竹さんの話を興味深く聴いた。

火鉢をワインクーラーにしていた外国人との会食、新しい見方や発想が新たなビジネスを生み出すきっかけだと気づいたとのこと。こうした発想は思いつきや、損をしても構へんという、おおらかさに支えられることを感じさせられるものだった。

計画はたしかに大切だろう。でもそうした短い時間とのつきあい方が発想を縛り、つまらないものにする面もある。予定は未定、いま先が見えているということはそれ以外のことは見えないということでもある。キャリア教育や学校の戦略論など、おもしろいこと(それは不確かなことでもある)を忘れないようにつもりしたい。

30年前、JALが潰れるとはおそらく誰も想像しなかった。そしてパソコンのない生活が成り立たないようになることも同じように想定外だった。だからこそ常に思いたい、瓢箪から駒って楽しいってことを。

2010年2月10日水曜日

外国だからこそ、いっそうマナーを

嫌な経験をしたのに、ちょうど忘れてしまう頃なのだ。

外国人留学生、そのほとんどは中国人だが、研究生として受け入れてくれと依頼が舞い込む。過日は速達で郵便が届いた。読むと、こちらで勉強したいと便せんに手書きである。新年度が近いから急いでいるのかもと、記された電子メールアドレスに「まずは話をうかがいます」と返事をする。

ところが、以下の日程のいずれかはどうかと書いたのに音沙汰がない。メールが未着なのかもと心配になり、同じく記された電話番号に掛けてみた。留守番電話になっていたので要件を吹き込む。これで相手には伝わっただろうと思う。

そして今日に至るまでも何の連絡もない。数を打てば当たるなのか、他で引き受けてくれる人がいたのかもしれない。

熱心な留学生もいることは知っているから、丁寧に対応したいのだけれど、こうした失礼な例が何回も続くと参る。当然、印象は悪い。仮に受け入れてくれるところが見つかったのなら一報するのが最低のマナーではないだろうか。

自分のために、面識すらない人が時間や労力(ちょっと大げさだが)を割いてくれたことを考えてほしい。そして、こうしたやり方 を続けることで、必ずしも同じではないにもかかわらず「外国人留学生はいつもそうだから…」と、他の留学生に関しても悪い印象を与えてしまっていることに も…。

この間、初めて知った。ある同僚は、そうしたメールは読みもせず、すべて削除しているらしい。受け入れる気は毛頭ないとのこと。そう思うようになるまでの経験があったのだろうけれど、ちょっと残念にも思う。

「自分は祖国の外交官」とまでは思わなくてもいいけれど、多くを知らない外国人にとって、あなたは彼の地の代表でもあるということを知って、礼儀を尽くしてほしい。長期的に大きな損をするかもしれないから。留学生数の大幅な拡大は国策でもあるが、最前線の気持ちはまったく複雑である。

2010年2月2日火曜日

獣医師にもインフォームドコンセントの教育を!

今日の投書欄に「猫の治療費に何と150万円」という京都市在住の方の文章が載った。

先月、拙宅の犬Maiがかかった「問題な」動物病院のことを思い出し、飼い主と患蓄の権利の拡充をと強く願う。

人間の場合も同じだろうが、飼い主が動物を病院に連れてくるのは困っているからであり、「助けてください」モードなのだから、獣医師に対して弱い立場で現れる。最近は「モンスター患者」もいるそうだが、それでも最終的に自分の命を握っているのは「向こう側」とわかっているのだから、自ずと限界がある(大した状況でもないのにモンスター然でいられるのは、病院にとってやっかいだろうが)。

そして、治療の内容がよくわからないから、「そうですか」と言わざるを得ない。この一言は、獣医師にとって「是非そうしてください」と都合良く翻訳される。素人は判断基準をほとんど持ちえないのだ。

くわえて、人間と違って保険が利かないから、かかった丸々の負担がのしかかる。基準額があるのかどうかも怪しく、明細も必ずしもはっきりせず。受け取るレシートも30年くらい前のスーパーかのよう。数字が並んでいるだけだ。文字通り「言い値」である。悪徳医師にはまったくおいしい業態だろう。

動物に事情を説明してやれないのも悲しい。初めてのところに来た動物はたいてい震え、怖がる。ここでいきなりお尻に器具を入れられたり、注射や点滴をされるのだから、さぞ辛いことだろう。

こうした関係や状況の中で患蓄への医療が行われている。なのに、「別の獣医師の意見を聴きたいので、ここで撮ったレントゲン写真のコピーをもらえませんか」と訪れたら、「渡しません。渡さないというのが方針です」「渡さない、それだけです。それ以上でも以下でもありません」「素人さんに説明しても仕方ありません」。(なぜ渡してもらえないのですかと尋ねても)「もう私は何も話しません、口を開けません」と言い放ったN動物病院。けっきょく渡してくれなかった…。控えめにコピーをと言っているのにである、現物でもええんやで。

痛がるMaiを押さえて、そのレントゲンを撮ったのは、あろうことか獣医師の奥さんと私の家人である。獣医師本人は、被爆を恐れてか別室に避難していた。それでいてこの対応である。

獣医師にそんなに期待できないことはわかっている。だから、飼い主は少しでもよい獣医を求めてさまよっているのだ。だから、情報の提供としっかりとした説明をしてほしい。

日本獣医師会は、飼い主に対するインフォームドコンセントを原則に掲げているではないか。(今回の件は、質問めいた意見として文面にて日本獣医師会に伝えており、返事ももらっている。2度のやりとりもした。同会から京都府獣医師会にも伝えるとのことだ。個々の獣医師は構成会員となるそうで、直接には言えない模様。ええいまどろっこしい)。

病気の動物を抱えておられる方へ。何回か行くと別の獣医師にかかることを申し訳なく、あるいは面倒にも思うこともあるでしょうが、次の獣医を探す努力を、決して惜しまないで。

下手な動物病院に通い続けたら、法外なお金を取られるだけでなく、冒頭の投書にあるように、最後には家族同然の動物を殺してしまうことにすらなりかねませんよ。