みなさま、お久しぶりです。この10日ほどドイツに出かけていたため、更新に手が回りませんでした。南西ドイツの朝はマイナス3度くらい。屋内はシャツ一枚ちょっとで過ごせるのですが、外は寒かったです。
いきなり大上段な物言いで恐縮ですが、研究が何かを発見しようとする行為であることから、そこでは「こうなってるのは?」という仮説や予想が前提となります。探索的研究といって予断を持たずに観察、分析するという研究スタイルもありますが、大なり小なり予想のない研究はあまりないといってよいでしょう。
そこに観察者の主観や願いの混じる余地が生まれます。広く社会を見ようとする立場にあっては、社会に自分が含まれることからまま自分を見ることでもあり、その余地はいっそう大きくなりがちです。イデオロギーが生まれ、それが自己正当化となりがちなのは、自然科学と大きく異なる点でしょう。
この主観がどこからスタートするのか、乱暴に言えばそのあり方によって研究の半分以上は決まるように思うのです。自分が思うことを主張するために材料を探してくる、社会科学系の研究はどうしてもそうした趣きや偏りから逃れられない、と私は考えています。
ならば、最初の段階において、「ここが違うのではないか」と考えるのとおなじように、「ここは同じではないか」と考えるスタイルをとったらどうだろうか。こんなことをドイツで考えました。
ある中等学校で、9年生の女生徒4人と1時間半ほど話をする機会があり、いじめ(Mobbing)の様子が、嘲りや侮辱、たまに暴力はあるものの、無視や悪口があまりないと彼らが語っていたので、日本のそれと違うのではと一度は思ったのです。ところが、あとで同校にも職場を持つソーシャルワーカーと話をしたら、彼女たちはいわゆる良い子でいじめ問題とは少し距離のあること、またいま深刻なのは「ネットいじめ」(cyber-Mobbing)なのだとも聞きました。もしそうならば、日本で言われている状況に近いことになります。地球のほぼ裏側でも同じようなことがまま起きているのかも、と感じさせられた次第です。
観察者の主観から、場所が変わると、どうしても「違うのではないか」と考える傾向が強まりますが、それを認めつつ「同じではないか」と予想して対象を見てみることも大切ではないだろうか。その上でなお「違う」と思われることは何か、それが「出羽の守」と違う研究になるのでは…。ドイツの学校を訪れながらそんなことを思っていました。
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