昨日のニュース、「文部科学省は、不登校の高校生がフリースクールなど学校外の施設に通った日数を、在籍高校の校長の判断で出席日数に加えることができるようにすることを決めた。09年度から適用。同省によると、不登校の高校生は07年度で約5万3000人。うち約1000人が教育委員会の設置する教育支援センター(適応指導教室)や、フリース クールなどの民間団体・施設で相談や指導を受けている。「若者の社会的自立のためにも不登校対策の充実が必要」として支援措置を決めた。学校外の施設へ の通学定期券も発行されるよう、鉄道事業者などと交渉している」(毎日新聞、2009.2.27 抜粋)。
小・中学校については1992年からこのように対応しており、それが拡充された格好になるが、義務教育でない高校についても同じ扱いをすることになるとは…。とても残念な思いがする。
むろん、学校が生徒を「見捨てない」という気概を持って、少しでも子どもたちが向学校的であることを願うということもわからなくはない。その上で、「これって、学校の存立基盤を自分で掘り起こしていない?」と思うことも事実だ。
学生に学校制度の講義をするときに付け加える。「高校には不登校はないのです。なぜなら高校は行かなくてもよい学校段階なのだから。だからこそニュースにはカギカッコをつけて、『不登校』って書いてあるでしょう」って。
なのに、高校で不登校、それを他の施設に通ったら登校に読み替えるっていったい?
一昨年だったろうか、高校での未履修問題が騒ぎとなった。結局、「集中授業」などで単位認定をしたという不細工な終わり方をしたが、高校を卒業したというからにはこれだけのことを習得した、ということについて文部科学省や教育委員会、もちろん学校も主張するつもりがないから、どこかでなあなあにしたいと思った結果だろう。
ことほどさように、学校が「誰が何と言おうとこれが卒業ラインなの」と矜持を保つことはなく、できるだけ緩くすくい上げようとするし、教育行政機関もなるべくその方向を活かそうとする。それで上手く行けばよいが、そうはならない。「真っ当に」高校に通い続けている生徒は割が合わないではないか。そして、その不公平は生徒にとってよくないだけでなく、学校の「もっともらしさ」を危うくする点でまずいのである。
制度が官僚的に淡々と運用されず、関係者の恣意に委ねられること、これは文字通り「お手盛り」となる。教育は他の領域以上に情緒的であるからこそ、そこに担保される専門性はより高くなければならないし、それを欠いては、なぜ学校に行くのかをいっそう説明できなくなる。
義務教育段階でも原級留置が法定されているのにこれが運用されず、その一方で「学力向上」が声高に叫ばれるというアンバランスさをそのままにして、「信頼される学校」などというものが実現できるのだろうか。
児童・生徒にどんな「力」を付けさせてこそ卒業に値すると、教育行政機関と学校関係者は考えているのだろうか。その言動の無理さ、厳しくいえばいい加減さを認め、学校の入学と卒業の原則に立ち返るべき時期に、とうに来ているのではないだろうか。
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