2009年2月8日日曜日

「ネットいじめ」の次の局面

前のブログにて、Cyber-Mobbing(インターネットを通じたいじめ)がドイツでも深刻という声を聞いたと書いた。

この言葉をたどってドイツ語のWikipediaを読んでみたら、生徒や学生による教員に関する匿名での書き込み、という記述があることを知った。大学でも学生による教員の「評価」のサイトのあり、それが暴走する危険性を指摘しているのだ。

開けてみると実に詳細なデータになっており、驚かされる。試しに、個人的に知っているある教授を探すと、結構な数の書き込みがあった。数値評価と自由記述の2つからなっており、前者では「面倒見のよさ」「公正さ」「理解のしやすさ」などがあり、最後に「お勧め」か否かをつけるようになっている。もちろん、平均スコアとお勧め率も弾かれている。

自由記述欄には、何も書かれていない回答も多いが、長い文章も結構ある。ほとんど理解できない、矛盾している、必修だったから仕方なくとった…と厳しい書き込みがある一方、この大学が同教授を得たことは幸いだ、はじめは混乱したが徐々に面白さがわかってきた、何といっても大学なのだからこれでよい…とやや少なめながら強い評価も見える。私の知る同教授の姿とおおむね重なるので、それなりの評価とも言えようが、強い口調の否定的書き込みには辟易だ。

(わたしの不勉強かもしれないが)日本では「ネットいじめ」はまだ生徒たちの間に留まっているように思う。しかし、この次の局面は、教員に矛先が向けられることだろう。「教育問題」としてこれを扱える時間はあまり残されていないのかもしれない。

ネット社会が不可避であるなら、そこでの「市民性」をいかに育てるかが問われるべきだろう。携帯電話を排除したり利用させないようにするだけでなく(もちろん、飲酒や喫煙、投票権と同じく、年齢格差はあって然るべき項目もあるだろうが)、それらとどう付き合うのか、匿名性をなくすことができない社会でいかにうまく人間関係を作っているのか、試され、次第に定式化されていくべきだろう。

群衆が存在しなかったはるか昔、たとえば中世社会はみんなが顔見知りだった。そこには匿名性のないゆえの良さと同時に、「しんどさ」もきっとあったことだろう。だからこそ、キリスト教会では懺悔室を設け、建前としての匿名性を確保したうえで、人々の告白を促すことができたのである。これに対して、現代社会では匿名性が席巻しており、それが従来の「顔や身体は見える」状態を一挙に越えた水準に至っているために、混乱が生じている。

自分が見えにくい社会では抑制がききにくい(「旅の恥はかきすて」)。だからこそ、これまでそれなりに馴染んできた商品経済社会の水準から、徐々に匿名性高くとも関係を維持、発展させられるよう経験を積むことが必要となる。

「ネットいじめ」問題は社会の鏡の一つに過ぎない。大学を含む教員は、この次の局面を強く心づもりしなければならないと思う。

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