2008年12月23日火曜日

リアリティーのない教育改革論

ここまで「思いつき」に近い議論が正統化されるのか…、と呆れている。

改訂案が出された高校の学習指導要領、「英語は基本的に英語で教える」という。「マジっすか」と突っ込みどころ満載だ。

生活の中で知らず知らずのうちに獲得する母語と違って、外国語は母語との類推や峻別をしながら相当に意図的に学ばなければ「身につける」ことは難しい。だから、母語で説明を受けながら、「似たようなとこがあんな」とか「全然ちゃうやん」と整理しながら、学習を進めていくのだ。

Open your text book. や Repeat after me. といった指示ならともかくも、no more than は「…しかない」、not more than は「せいぜい…」、not less than は「少なくとも…」といった区別を、どのように英語で説明(多くの場合は話をして!)するというのだろうか。

"no more than" is used to emphasize that a particular number, amount, distance etc is not large.(Longman Dictionary if Contemporary English を参照) [no more than は、それぞれの数、量、距離などがそれほど大きくないことを強調するために用いられる]といったことを、高校の授業中で教員が生徒に話して説明するということ、これはどんな現実味があるというのだろう。

こんな内容を教員がおよそ話せるとは思わないし、仮に話せたとしても生徒のほとんどはチンプンカンプンだろう。そもそも、日本語で分かり合えるとわかっている相手に、違う言語で話す気なんて、さらさら起きないんだよね。

「文法の説明は極力省いてよい」という意見もあるのだろうが、それで外国語を獲得することがどれほど可能だろうか。この地に住む人がもう日本語を止めて「英語」(どこの"英語"かはともかく)にするというのならば、頷ける主張だが。

日本に住む多くの人にとって、およそ必要性の乏しい英語を、98%もの中学卒業者が通う高校の授業でやることを考えた人の頭の中を覗いてみたい。そんなこと、昨今の大学の英語の授業ですらほぼ不可能だと思うけれど…。そもそもそれは何のため?

ただし、大学の授業において、専門の授業を英語ですることは可能だと思う。キーワードをある程度に絞って、論理構造を問題にするのであれば、講義と議論はできるだろう。以前の大学で一度やろうとしたことがあった(ただし、しんどくてお互いめげてしまったけれど…。)だから、高校のたとえば、数学の授業を英語ですることは、英語の授業を英語でするよりも可能性があると思う。

英語の授業は、英語を学ぶ授業である。「英語を学ぶ授業を英語でするということ」の原理的無理さに気づけないほど、日本の英語教育関係者は、論理的能力が低いということだろうか。

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