2009年1月27日火曜日

体罰問題の議論から

教職大学院の授業が終わったあと、印象深い話ができた。
現職の中学校の先生との話だ。

いわゆる体罰問題の捉え方が話のきっかけだった。ときに非公然ながら生徒に対して体罰が行われることがあるが、それが有形力の行使の困難なとりわけ女性教員にとって新たな困難を生み出すこと、つまり、力のある男性教員の前ではおとなしくなる生徒が、その反動もあってそうではない特に女性教員の前ではいっそう荒れることがあり、皮肉なことに、力で押さえようとすることが、全員でそうできないことにより、教員間の連携を奪ってしまうという結果を導くという指摘である。

体罰問題が生徒にとってどんな意味があるか、についてもっぱら考えていた私にとって、教員間のつながりを弱め、さらに女性教員が生徒からの「攻撃」に合うと同時に、「力のない教員」と同僚から低い評価を受けるという、二重の意味で不利を被る可能性にあることを知ったのは衝撃でもあった。

学校のメンバーとしてのまとまりや協力がいかに大切かは縷々述べられているところだが、そのためには、同じ教員である限り、おおよそ同じように振る舞える方略でなければならないという原則が有効であること、そのためにも、一部の職員だけで決めたり、行動したりするのではなく、できるだけ全員の合意形成を取り付けられるまで議論することが大切なこと、を学べたように思う。

これまでの学校での意思形成論はもっぱら手続きのあり方として取り上げられてきた。ところが、手続きが民主的か否かが大切なのは、民主的であることそのものに意味があるからでは必ずしもない。

民主的であることが、構成員にどのような意味や立場を与えるのか、それが学校という仕事にとっていかに効果的かを明らかにする方向で議論を進めること、それが公教育の仕事の効果や効率を実証的に問うものでもある点で、ちょっと勇気づけられる発言を聴けた今日のことだった。

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