我が意を得たり、という投書があった。後藤勝美「障害を『障がい』とする意味は」(朝日新聞、2009.1.23「私の視点」)だ。
同氏は、「障害」から「障がい」へと公文書の表現が変わるところも出てくる中、障害者が必ずしも適切な表記とは思われないが、と断った上でこう述べる。
「障害者」が社会環境や政策的不備から生じている不自由さに直面しがちな「社会的被害者」であること、この点では「害」を被っている立場であることを含むものと捉えるべきだろう、と。
昨年の拙ブログにて、「手短(てみじか)に、という表現は問題か」の旨を書いたが、「障害」をめぐる表記もこれと通じるように思う。
後藤氏は述べている。「『害』を平仮名に変えたところで、前述の社会的被害は何一つ変わるわけではない。それどころか、その被害をあいまいにし、あげくの果てに『害がなくなった』という風潮を広める危惧を覚える」と。
手短という表現を遣わないことで、手が短いという現実が変わるわけではない。手が短いことで社会的に不自由な状況にあることをこそ変えるべきである(自動販売機のコインを投入する場所を低くするといった)。もっとも私は、手短を迅速に、簡潔にという意味で用いているのであって、人を指して述べているわけではそもそもないが。
手短という表現をなくすことで手の不自由な人が存在しないかのような風潮を作り出すことではなく、手の短いことが特段の不自由をもたらさないような条件を整備していくことで、手短という表現が否定的価値を持たないような意味世界を作り上げることこそが求められるのだ。
アメリカでのオバマ大統領の誕生は、「黒人」という言葉にこれまでまま含んでいた否定的価値を覆すことになるだろう。「黒人だから」という説明は、否定的意味でなはく、肯定的、積極的意味を持つものへと次第に組み替えられていくだろう。
手短もこれと同じだ。手の短くない多数者が短い少数者を哀れみ、それを「見て見ぬふり」することで問題が解消されるわけではない。「手短という言葉を遣わないようにしよう」と意識するたびに、手の短い人を「違う人」と捉え直すことになる。これは、「それがどうしたというの?」という新たな発想を導くのとは反対の方向を取るから、既存の価値を強化するほかはない。
こうした考えはどうだろうか。ぜひ議論していただきたい。この論理が成功しているかどうかはともかく、もっと自分で考えること、「そうなんやって」と安易に鵜呑みにするのではなく、もっともらしい権威に身を委ねるのではなく、そもそもから考えることが改めて重要だ。
わたしの「手短」発言を指して、よろしくないと述べた教頭先生の感想には、「障がい者の…」とも書いてあった。この御仁が障害者問題あるいは差別問題について自分で考えたわけではないと判断するのは早計に過ぎるだろうか。
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