2008年12月31日水曜日

みなさま、よい新年を

ことしも最後の日となりました。

この1年聞いた言葉でもっとも印象深かったのは、赤塚不二夫さんの葬儀で、タモリが次のように述べたところです。

「あなたは生活のすべてがギャグでした。あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい意味の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と。私もあなたの数多くの作品の一つです」

自然科学についてはともかく、人文科学や社会科学は、意味づけることと無関係にはいられないように思います。この意味をめぐり議論し、ときに激しく対立する。このことから解き放たれれば、どれほど安寧を得られるでしょう。

それでもなお、意味を見出そうとするのがおそらく人間。意味というものと「付かず離れず」のつきあいができればいいな。

ちょうど、昨日のネコの日めくりカレンダーに次のように書いてありました。「力や議論によって世界を変えようとする人たちがいる。しかし、猫はただ寝ころんで居眠りをするだけだ。そうすると、世界は静かに自然と変わり、猫にとって快適で心地よいものとなる」(ALLEN AND IVY DODD)。

みなさまに、楽しい2009年が訪れますように。

2008年12月29日月曜日

危ないところだった


拙宅の犬、Maiは14歳と7ヶ月。さすがに走り回ることはなくなりましたが、さして老いを感じさせることもなく、いたって元気でおります。

先日、出先から家に戻った際、家人がMaiを連れて、エレベータ口に向かいました。わたしが集合郵便受けをのぞきにいってから戻ると、エレベータは上に上がり、Maiがぽつねんといるではありませんか。

「先に行ったのかな」と思っていましたら、家人が怖々な顔をしてエレベータから降りてきました。聞くとこういうことです。

エレベータに乗り込み、わたしを待っていたらボタンを押し間違えたか、扉が閉まり、上り始めた。そのとき、Maiはまだエレベータに乗っておらず、リードを挟んだまま扉が閉まってしまったのだった。慌てたもののエレベータを止めることができず、そのまま一度上がり、急いで1階に戻ってきた。リードに繋がれたMaiが引っぱられて天井にでも頭をぶつけられているのではないかと恐る恐るだったが…。

見るとMaiのリード、持ち手から30㎝くらいのところで何とちぎれています。きっと扉が閉まった直後に切れたと思われます。長い間つかったのできっと劣化していたのでしょう。かくして、事故とならずです。やれやれ。

持ち手の部分、輪っかのないリードはもう使えません。予備のリードがもう1つあったので、今はこちらで散歩に出かけています。ちょっと危ない年の瀬でした。

2008年12月23日火曜日

リアリティーのない教育改革論

ここまで「思いつき」に近い議論が正統化されるのか…、と呆れている。

改訂案が出された高校の学習指導要領、「英語は基本的に英語で教える」という。「マジっすか」と突っ込みどころ満載だ。

生活の中で知らず知らずのうちに獲得する母語と違って、外国語は母語との類推や峻別をしながら相当に意図的に学ばなければ「身につける」ことは難しい。だから、母語で説明を受けながら、「似たようなとこがあんな」とか「全然ちゃうやん」と整理しながら、学習を進めていくのだ。

Open your text book. や Repeat after me. といった指示ならともかくも、no more than は「…しかない」、not more than は「せいぜい…」、not less than は「少なくとも…」といった区別を、どのように英語で説明(多くの場合は話をして!)するというのだろうか。

"no more than" is used to emphasize that a particular number, amount, distance etc is not large.(Longman Dictionary if Contemporary English を参照) [no more than は、それぞれの数、量、距離などがそれほど大きくないことを強調するために用いられる]といったことを、高校の授業中で教員が生徒に話して説明するということ、これはどんな現実味があるというのだろう。

こんな内容を教員がおよそ話せるとは思わないし、仮に話せたとしても生徒のほとんどはチンプンカンプンだろう。そもそも、日本語で分かり合えるとわかっている相手に、違う言語で話す気なんて、さらさら起きないんだよね。

「文法の説明は極力省いてよい」という意見もあるのだろうが、それで外国語を獲得することがどれほど可能だろうか。この地に住む人がもう日本語を止めて「英語」(どこの"英語"かはともかく)にするというのならば、頷ける主張だが。

日本に住む多くの人にとって、およそ必要性の乏しい英語を、98%もの中学卒業者が通う高校の授業でやることを考えた人の頭の中を覗いてみたい。そんなこと、昨今の大学の英語の授業ですらほぼ不可能だと思うけれど…。そもそもそれは何のため?

ただし、大学の授業において、専門の授業を英語ですることは可能だと思う。キーワードをある程度に絞って、論理構造を問題にするのであれば、講義と議論はできるだろう。以前の大学で一度やろうとしたことがあった(ただし、しんどくてお互いめげてしまったけれど…。)だから、高校のたとえば、数学の授業を英語ですることは、英語の授業を英語でするよりも可能性があると思う。

英語の授業は、英語を学ぶ授業である。「英語を学ぶ授業を英語でするということ」の原理的無理さに気づけないほど、日本の英語教育関係者は、論理的能力が低いということだろうか。

2008年12月20日土曜日

シクラメンはあかんの?

世の中、俗信は多いけれど、イエスが磔刑になったらしい「13日の金曜日」ならまだしも、「死」や「苦」を想像させるから避けなあかんやって、誰が言い出したんやろ。お見舞いにシクラメンのことを。

Wikipediaによると、「花茎がはじめ丸まった状態で発生することから」「サイクル(Cycle)」ということで命名されたらしい。ほんなら、「サイクラメン」(丸い花)と言えへんこともあらへん。ほしたら、「幸」「蔵」、幸いが蔵いっぱいでええことやんか。

ちなみに、シクラメンは
和名で「豚の饅頭(ブタノマンジュウ)」と「篝火草(カガリビバナ)」の二種類あるんやて。最初のはちょっと色気がない気もするけど、いろんな命名があるわな。そういえば、タンポポは、英語、ドイツ語、フランス語で「ライオンの歯」(葉っぱの形から)って言うしなあ。

とまれ、きれいな薄いピンク色の鉢だから持っていったんや。鉢ものは「寝付く」からあかんとも言うけど、何で「根」が「寝」なんや。あほゆうんやない。「根性」とも「ルーツ」とも言うやんか。根は大事やで。つまらんルールを決めたがる暇人もいるんやなあ。ホンマに。

近親やからどうのこうの思ってへんやろけど、今日行ったら、やっぱり持って帰ってきた方がええやろか、シクラメン。

2008年12月15日月曜日

朝からでもいただきます


ちょっとご無沙汰しました。お元気でお過ごしですか。

私事で恐縮ですが、パートナーがいまパン作りに精を出しています。回を重ねるに連れて、何となくパン屋さんで見かけなくもないような感じのものを作るようになってきました。

これは、ライ麦バスケットという代物。パンの中をくり抜いてビーフシチューを入れ、チーズをかけてオーブンで焼いています。

朝から結構ハードなものですが、美味しく食べました。コーヒーとよく合います。

いよいよ年の瀬ですね。何かと慌ただしいことですが、皆さまくれぐれもご自愛のほどを。

2008年12月5日金曜日

何でも「教育問題」にするな

大阪府が、小・中学校への携帯電話の持ち込みを禁じる方針を出したことをめぐって、お調子者が現れた。

曰く、「
携帯電話が人間性を失わせる側面を強く持つ。これは疑いようのない事実。便利は便利なんだけど。携帯電話を教育現場から追放するのは、実に正しい」(鳩山総務相)」(TBS news)だそうな。この御仁の事大主義的な発言は以前からあったが、今回はまったく頂けない。

その一。人間性が何かも定義されていないのに、それを失わせる云々と言っても仕方がない。優しさも人間性、凶暴さも人間性である。およそわかってもらおうとする発言ではない。

その二。携帯電話の便利さを認めているようだから、これを否定することは長い人間の「便利さ」への挑戦を否定することになるのではないか。この大臣は電子レンジや洗濯機と無縁で、新幹線のぞみ号などには乗らず、籠にでも乗って移動しているのだろうが。

その三。携帯電話が便利であることを認めているあたり、この大臣も利用者だろう。ならば自分を省みて、人間性を失いつつあるからヤバイと思ったゆえの発言なのか。それとも、すでに人間性を失っているから、こうした訳の分からない発言しているのか。

およそ噴飯ものの発言が首相を始め、こうポンポン出てくるところに、危うさを見る。こんな陣容でどうして外国と渡り合えるのだろう。こんな面々が登場するに至ったのも、かれらの受けた保護者や学校による教育がまずかったためと言うことか。言い返されないと思って、安易に「教育問題」を引くあたり、これじゃ、弱い者いじめだわなあ。

2008年12月4日木曜日

寒くなりました


ねこフリークのみなさま、
お変わりなくお元気ですか。

ここしばらくあたふたしており、拙blogになかなか向かえません。

授業(含む、ピンチヒッター)、学生指導、会議、そして講演や研修、学校関係の方との打ち合わせ、原稿書き、論文査読、学会報告の準備、外国調査の準備、入試業務といったところでしょうか。だいたいが複数並行なのですが、ある意味でもう慣れたものですから、ずっと「夏休み中の予定」管理をやっている感じですね。

さて、拙宅も寒くなり、またネコたちがひっつきもっつきするようになりました。きょうは珍しいことに、きなこともなかが一緒です。ネコの間の「人間」関係も複雑で、明らかに相性があります。当たり前のことかもしれませんが。

犬のMaiに神経をやられた黒ネコのジジは、右目が閉じず、反対に瞬膜が降りて目を保護しますが、目やにがひどくて毎日のようにとってやる始末。やれやれ。人が横になっていると、ドンと胸の上に乗ってくる甘えん坊です。

気が付けば世は12月。年の瀬なんてあっという間ですね。
みなさんもくれぐれもご自愛のほどを。

2008年11月24日月曜日

紅葉狩りに行きました

年に1度、およそ6つの大学の学部生や大学院生たちの集まる会があります。

自分たちが執筆中の論文を報告し、ふだん指導を受けている教員とは別の角度から他大学の教員に意見をもらい、あるいは学生同士が意見をたたかわせる「合同卒論・修論研究会」です。

ことしは23回目、四半世紀まであと一歩というところまで続く、息の長い集いになっています。

輪番で各大学がホスト役を務めるのですが、今回は京都でお世話を申し上げました。6つの大学から参加した学生と教員は50数名、1日目と3日目の議論の時間を挟んで、2日目は今真っ盛りのグループ別観光としました。

予想はしていたものの、とんでもない混みようです。竜安寺から金閣寺の間、バス停3つなのに、バスは何と1時間もかかりましたから。嵐山に行ったグループは渡月橋から人がこぼれ落ちそうだったとのこと。このシーズンですからやむを得ませんが。

とまれ、お寺の中に入ればそれなりの静寂と紅葉を楽しむことができました。侘びさびを解するには遠く及びませんが、それでもいいなあと染み入るものがあります。癒されました。

遠路来てくださったみなさん、ありがとうございました。来年もまた会えることを楽しみにしています。

2008年11月21日金曜日

コミュニケーション力が低下したわけじゃない

子どもの暴力行為が5万3000件と過去最高を更新したと報道された。これ自体は憂うべきことかもしれないが、またぞろの「コミュニケーション力が低下している」とのコメントには疑問だ。

携帯電話やパソコンを介したネット社会への参加は、個人の行動範囲を広げる分、空間的に近い人々との関係を薄める。電車で小さなモニターを覗いてニュースを眺めているおじさんにとって、隣に座っている人は自分に無関係だ。

人の認知資源には限りがあるから、遠くのことに関心が向けば、その分だけ身近なことには関心を向けられなくなる。「会社人間」だった人が定年後、「ご近所デビュー」するのは大変だし、マンションで近隣に挨拶をする必要がないのは、室内でネットにつながっているからでもある。

子どもにはかれらなりの事情があるのだろうが、学級や学校に自分を帰属させる余地が少なくなる分だけ、愛着も減っていくのは当然だろう。自分が何者かを説明してくれる場をそこに求めなくてもよいのだから。

こうしてモバイルな状態が広がっていくとすれば、求められるのは、これまでの「自分たち語」ではなく「いろんな世界語」でコミュニケーションできる力だろう。これは空間的な話だけでない、それぞれが自分の世界を持っているという前提に立って、文脈を共有するところから話を始めなければ、伝わりようもない、ということを理解し、行動できる能力である。

昔の人のコミュニケーション力が高かった訳では必ずしもない。移動性(mobility)が低い時代にあっては、「自分たち語」がそのまま「世界語」でありえた(自分と出会うほとんどの人とわかりあえた)から、話ことばよりも、身振り手振りあるいは隠語のようなやりとりで互いが了解できたということだ。今風に考えれば、ひどくローカルな話で、むしろコミュニケーション力が低かったとも言える(だから、外国人に出会うとひどく緊張したのだろう)。

そうした「濃口」の人間関係から離れて、地球中の人々と24時間やりとりできる状況になった現在、問われるのは「薄口」の人間関係を支えるコミュニケーション力である。「近くにいるから自分と同じように考えている」とは思わずに、相手に応じるべく「さぐり合い」のできる能力、これは結構くたびれることだろう。

コミュニケーション過剰にならないためにも、ときに自分一人になれる場をもつこと。子どもの暴力問題に戻るならば、ケータイやインターネット、あるいは習い事や塾といった複数の対人関係のチャンネルを減らすことが、急がば回れ、かもしれない。

2008年11月19日水曜日

読み間違えた!

学習心理学や認知心理学の格好のネタになるような経験をしました。

「議員定数削減率先公約せよ」という、縦二行の新聞の投書欄の見出しです。
「削減率」と読んでしまったのでもうだめ。先公約?あれっ? 授業中のことですから格好の悪いこと…。学生が教えてくれました。

「削減」と「率先」を分けられなかったなんて、そもそも自分で用意した資料なのに…いやはや。

感心しても何ですが、まさにコンテキストとことばをセットで人は理解する、ということがよくわかりました。

N.ルーマンの指摘した「コミュニケーションの自己準拠」-人は状況的なコンテキストがあってこそコミュニケーションができ、そしてコミュニケーションができるからこそ状況的なコミュニケーションが構築されるということ、に、この小さなケースもつながっているなと関心した次第です。

それにしても恥ずかしかったなあ。

2008年11月16日日曜日

クルマの持つエネルギーの大きさ

再び、車のひき逃げ、しかも被害者を引きずり、死に至らせた事件が大阪で起こった。
飲酒運転をしていた41歳の男が、16歳の新聞配達の少年をはねて逃走。何と6キロも引きずったという。

飲酒運転等を減らすために導入された道路交通法の厳罰化。飲酒運転は確実に減っているが、他方で被害者を救助せず逃げ去るケースも増えているそうだ。ペナルティが重くなった分、逃れたい気持ちが強まるという、パラドクシカルな解釈も成り立つだろう。

だが想像するに、事故を起こしたら「この場合は罰がどれほどだから…」と冷静に考えるゆとりはとてもなく、無我夢中で「現場から離れたい」とばかり考えるのではないだろうか。その中を落ち着いて行動できる人こそ、少数でもむべなるかなと思う。

改めて考えてみれば、1㌧以上もあるような金属の固まりが、時速何十㎞というスピードで走っているのだから、衝突したときのエネルギーの大きさはとてつもないものだ。そんなものと生身の人間が同じ空間を共同利用していることじたいに無理がある、とも言えるだろう。にもかかわらず、そんなことを普段は意識しにくい点こそ、慣れの恐さだ。

「不思議だなあ」と思える能力、それは学問上のことのみならず、日常生活でも「役に立つ」ことと強く思わされる。

2008年11月14日金曜日

キャリアが自分の辞書をつくる

先日、ある県の管理職研修にお邪魔しました。ここずっと、わたしは「コミュニケーションと学校経営」というテーマにはまっているため、研修内容もその彩りの濃いものです。

書き言葉と話し言葉のくだりで、ふと「この言葉をご存じですか」と尋ねてみました。-接遇-

80人ほどの参加者がいましたが、わかったと手を挙げたのはわずか2人。これまでも尋ねたことがあったので、その少なさに驚きはしませんでした。が、それでもこの言葉が教員の辞書にほぼないという事実は注目に値するのではないでしょうか。

学校に帰ったら
事務職の方に
聞いてみてください、と述べましたが、おそらくかれらは「えっ、知らないんですか」と、びっくりすることでしょう。

机を並べていても、これほど基本的な言葉を知っている人と知らない人がいるということ、そして、教育する立場の人間には、これまで接遇が求められてこなかったのだなあ、と知ることができます。

自分の辞書の偏りに気づくこと、またそれを是正すべく幅広い人と(せめて学校教育関係者だけでも)対話を試みること、そのおもしろさ、教えることに懸命すぎる方にはなかなか伝わっていないのではないでしょうか。


2008年11月13日木曜日

恐るべし舌禍

兵庫県知事が発言したという「関東大震災がチャンス」という表現。おせじにも上品とは言えないが、その趣旨はおおよそわかる。

ならば、チャンスと言わずに、契機とか背景とか、もう少し中立的な言葉を遣えばよかったのに…。
とりわけ外来語は、輸入されたあとに意味が変わることがあるので、適切に扱うのがなかなか難しいと思う。

たとえば、ドイツ語からの外来語を挙げれば、カルテ(Karte):広くカードの意味だが、輸入の経緯からか日本ではもっぱら医学用語。あるいは、ゲレンデ (Gelaende):英語のgroundにほぼ相当する言葉だろうが、なぜか日本語では、スキー場にのみに遣われる傾向あり。

かくも言葉が一人歩きする(可能性と)危険性を知ることができる。「言葉の世界の住人」である教育関係者も日頃のトレーニングを通じて、短い時間の判断でよりよい言葉選びができるようにありたいと思う。ことばの象徴的意味の強いことを感じさせられた事例だった。

2008年11月12日水曜日

ブログの引っ越しをしました。

ご覧下さっているみなさま、

このたび拙ブログをこちらに引っ越しすることとなりました。メールをgoogleに移したことをきっかけに、一度こちらで揃えてみようかなと思った次第です。

ここ数日、すっかり冷え込みました。
昨日は終日、校長先生との研修でしたが、会場にまだ暖房が入らず、事実上の冷房状態で、立ってうろうろする講師はともかく、座りっぱなしの受講者には、さぞ寒かったと思います。どうか風邪など召されませんように。

これからも変わらず、ご覧くだされば幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。