2010年5月6日木曜日
輸血をしてもらいました
拙宅のMaiのことでは、何かとお騒がせをしています。
関西に戻って5つ目の動物病院にて、ようやく光を見たように思います。
人間並と思われる機器を備えているだけでなく、ベテランから若い方まで数人の獣医さんがおり、動物介護士のスタッフとともに、てきぱきと検査、判断、今後の方針が決まります。飼い主とのコミュニケーションも柔軟です。受付の方の薬の説明も丁寧、わからないことはすぐに獣医さんに確認してくれます。費用の内訳も明確、カード払いもできますよ。HPには当番表も載せてくれています。なんでここに最初から来なかったんや。
去る2日、Maiの歯茎が真っ白となり、トイレに連れ出してもへたり込んでしまうほどとなったので、急遽また病院に駆けつけました。血液検査から、前回をさらに下回るほどの極度の貧血であることが判明。このまま薬を投じて炎症を抑えつつ様子を見るか、それとも一度きりと考えて輸血をするか、とたずねられたのです。
このままでは命が持たないと思い、ぜひ輸血をとお願いしました。人間と違って血液バックが常備されている訳ではなく、元気な犬から直接に血をもらうのだと、16年も犬を飼っていながら初めて知った次第です。インターネットを見ると、動物病院で大型犬をいわばドナー犬として飼っているほか、飼い主に供血してくれる犬の登録をお願いしているところもあるのですね。飼い主の方々の篤志は大変なものだと思わされます。
そのまま預け、その夕方、順調に終わりましたと電話をもらい、迎えに行きました。220㎜リットルもの血を輸血してもらったとのこと、かかった7時間くらい、血をくれた犬はMaiの横でおとなしくしてくれていたのです。ありがたいことです。
それから4日、幸いにMaiはずいぶんと元気になりました。消炎剤も効いているのか尿も透明感があります。腎臓の調子もいいのかも。食欲もまずまず(口まで運んでやらないと食べない我が儘ではあるものの)です。体力の回復が何よりですし、たくさん造血してくれたらいいのですが。この先もあまり楽観はできないけれど、頑張れるだけがんばってほしいというくらいでしょうか。
まずは以上のご報告にて。
貴重な血をいただき、大切な命の一部を頂戴したこと、感謝です。
2010年5月4日火曜日
時間割引と学校のビジョン
将来のことは誰にもわからない。それでもなお、アリとキリギリスの逸話が引かれるように、現在の努力や忍耐が将来の礎になるだろうという予感や信念は、それなりにもっともだ。ところが、このもっともらしさを体感できない場合、あるいはそれを支える「真理の体系」が見えない場合、人は現在を過大にとらえ、将来を軽視する傾向をもつ。
この着眼をヒントにすれば、学校のビジョンについて二つのことが言えるように思う。
その一つは、まだ見えない将来に向けて、子どもたちをどのように動機づけるか、たとえば「役に立つから」という理由とは異なる「将来への投資」と、ある意味で割り切った関わり方がいかにできるか、もう一つは、現在の捉え方が多分に過大であるという前提に立って、環境分析とそれにもとづくプランづくりに対するコストを抑え、より創造的・創発的な方向でのコストを拡大するかを考えるべきではないか、である。
時間割引率の低い子ども、4歳のときに目の前にあるマシュマロを食べずに我慢できたら、もう一つあげるという実験に「合格」した子どもは、高校卒業後の追跡調査で対人能力に優れ、成績も優秀だったという調査がある。この知見にしたがえば、一見博打のようにも見える将来への投資(ここでは、消費の抑制)を想像あるいは「思い込み」のできる力が重要といえるだろう。
先の一点目に戻ろう。子どもをいかに動機づけるか、そこには時間割引の見極めが重要だ。子どもに将来の利益のもっともらしさを強調できる時期ならば、「大きな物語」を。そうでない時期になっているならば、直截的な「役立ち」あるいは「おもしろさ」を。両者を区別することが大切になる。
そして二点目。現状を過大に捉えず、「とりあえずの」ものと理解すること、そしてこれから起こることに期待して、長期的な時間幅で学校の活動を見ようとすること、これは、伊那食品工業の塚越社長が強調する「年輪経営」にも通じるものだろう。
2010年5月2日日曜日
Give&Given
あまたの発明アイディアの源泉はとたずねられ、ハングリー精神と答えた氏は、続く、「どうすればハングリー精神を持ち続けられるのか」という問いに、「たくさん寄付をして、自分の手元にお金を残さない」旨を話する。そして、その根本には、Give&Given、人に与えればいっぱい返ってくるという発想があるというのだ。
Give&Take が交換関係を示すとすれば、Give&Givenは先をアテにしないでいるとも言えるだろう。ならば、この反対、Take&Takenも言えるかも。「ほしい、ほしい」ってやってたら、いっぱい奪われるということ。
いずれの関係であれ、群れの生き物人間だからこそ、起こる不思議なことのように思う。あなたはいずれを選びますか。
2010年4月30日金曜日
診断の能力と自信
うちの犬Maiのことでは、お騒がせをしています。
前回ご報告をしたように、後ろ右脚が腫れて1ヶ月半近く、獣医に行きたくない、とはいえ行かなければならない、とジレンマが強まり、改めてインターネットで獣医さんを探しました。
最初は、奈良で36年もやっている獣医さん、しっかりとした印象は、HPが充実していることや院長さんの挨拶文から感じられます。
そこから飛んで拙宅の近隣の獣医さんへ。その奈良にて研修を経た方です。さらに、その近くの獣医さんへ。
季節はフィラリアの接種、わんにゃんランドかと思うほどの混みぶりでしたが、まだ若手と思われる獣医さんに丁寧に診てもらいました。触診、レントゲン、血液検査、超音波検査と経て、貧血状態と言ってよいこと、腎臓機能の問題があること、生検をしないと診断はできないもののある病気が疑われることなどを丁寧に説明いただきました。
大いに感じたのは、診断の場面。後ろにスーパーバイザーとして院長先生がいたこともあったのでしょうが、言えること、言えないことのメリハリがあること、とりあえず判断できることについての細かな説明、同様の病症の例、今後の治療方針など、多面的に話をしてもらったように感じています。経験が伴わねばできないこともあるでしょうが、獣医学の知識と先例を中心に、ただし断言は避けて、かつ飼い主が「それは気づかなかった」と思わせるような内容がありました。
ひるがえって、2つ前のヤブ獣医は、血液検査をしても「この数値は高いですね」以上のことは言えなかったように記憶しています。それだけやったら素人が見てもわかるって。その数値の意味は? 今後どんな可能性が? と聞きたいのに、飼い主の質問に応じてくれたのは、獣医ではなくアシスタントの夫人。「辛いものは食べさせないとか…」。はあ、風呂屋談義をしにきてんのとちゃうぞ。いい加減にしろ。
返す返す、そんなトンデモ獣医に3回も通ってしまった。つくづく情けない(愚痴の繰り返し、どうぞお許しを)。
このヤブ獣医が、他の意見も求めたいからとレントゲン写真を借りに行ったら、突如態度を硬化させて、「うちはそういう方針ではありません。それ以上は何も話すことはありません」と暴言を放ったところだ。いま思えば、よほど診断に自信がなかったのだと思う。京都府獣医師会にもこのエピソードは伝えた。これに対して、きょう訪れた獣医さんでは、こちらが何も言っていないのに、精算の際に「これをどうぞ」とさっき撮ったレントゲン写真を持ち帰らせてくれた。こんなところに最初から来ていればよかったなあ…。
診断(diagnose)と推計(prognose)、どんな治療をするかをよりよく選ぶために、適切な診断を。それなくしては、先々のことが真っ暗だろう。
口調も語尾も変わり、すみません。いつものことですが、飼い主バカと諦めてください。教育学者として思うのは、いつも学校のありようについて。教育側はどんな診断能力をもっているのだろうか、またその担保はいかに? 専門職としての教職を問う角度は、まだまだあるように感じています。
2010年4月23日金曜日
学校ごとにアビトゥアの成績公開へ
特定の学校が差別されることから保護すべきだという議論を越えて、バーデン-ヴルテンベルク州の行政裁判所は4月22日、教育雑誌"Focus Schule"からの訴えを全面的に認めた。これにより州文部省は、2006年から2009年のそれぞれのギムナジウムにおけるアビトゥア(大学入学資格)の平均点および、学年の目標に達しなかった生徒の比率について公表することを義務づけられることになった。
同様に文部省は、すべての基幹学校、実科学校、ギムナジウムにおいて、予定された教育修了資格を得ずに学校を去った生徒の比率についても、学校ごとに示さなければならなくなったのである。(原文は、http://www.stuttgarter-zeitung.de/stz/page/2463715_0_1015_--focus-schule-land-soll-schuldaten-herausgeben.html)
日本でも似たような議論はあるが、学校が目指すべきゴールがあまりはっきりしていないので、評価する際の「ものさし」が一定しないという問題がある。この点、ドイツではAbiturを含む、州による教育修了資格試験が存在するので、それに向かって頑張ればよいという論理は可能だ。
日本の法規にも定められている、いわゆる落第(「 第57条 小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当たつては、児童の平素の成績を評価して、これを定めなければならない。 第58条 校長は、小学校の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない」学校教育法施行規則など)。これをしっかり機能させてはどうだろうか。
こうした「割り切り」のできない辺りが、「日本的」な良さかもしれないのだけれど。
2010年4月21日水曜日
「センセイ、イツ、リタイアシマスカ?」
リタイアして、あちこち旅行に行ったらいいのでは、という趣旨だったが、けっこう堪えた。
もうそういう時期にさしかかっているのかもしれないな。「自分の第三章はいかに?」と考えはじめてもいるので、より強く感じたのかもしれない。
昔ならばそろそろ退職が視野に入り、今でも十分に早期退職組に含まれうるくらいの年代に入った。まとめをすべき時を迎えたとは言えるだろう。
あたふたと過ごしているのは、何となく感じる「残り時間」を気にしての焦りか。本人としては、おもしろいと思えることが絶えず生まれるのを、大いに楽しんでいるつもりなのだけれど。
2010年4月16日金曜日
首輪が要らなくなり…
犬フリークのみなさま、お久しぶりです。
三寒四温という季節はとうに過ぎたはずなのに、寒い日が続き、コートもクリーニングに出せずというところです。
飼い主バカはいつものことで恐縮ですが、拙宅の犬Maiの近況報告を少し申し上げます。
1月下旬に右うしろ脚を上げて歩く様子に驚き、獣医を訪れましたが、原因は判断できず(いつまでも愚痴めいて嫌らしいことしきりですが、2軒目の獣医は「寒いからということもありますね」と曰うたのだ。はあ)。3軒目にして、丁寧な獣医さんにあたったはもののレントゲンを撮って、大腿骨が折れていることがわかったまで。
その2ヶ月後、3月に再度訪れ、骨が少しずつ再生していることまでは確認。ちょっと喜んだのですが、その後、くだんの脚が猛烈に腫れてきました。いわゆるパンパン状態です。ただし、出血ほか体内液が滲んでくるということはなく、(聞けないので確かなことは言えないのですが)痛がっている様子もありません。太もも以外であればマッサージめいたことをしても様子が変わることはなく普通のようです。
家人はすっかり獣医不信になっているので、連れて行く気にはならず、家で様子見の状況が続いています。そうこうするうちに、元気な左後ろ脚に負担がかかりすぎているためか、こちらも骨折ではないにしても弱ってきたのか、わかりませんが、よろよろし始めました。
いまや、リードをつける必要がないので首輪を外し、古Tシャツを使って家人が作った「特製シャツ」を着せています。立っているとどうしても左側に傾き、下手をすると転倒するので、それを支えるべくシャツの結び目、2箇所を人間が持って、トイレに連れて行くという格好です。
現在、外に連れ出してもウン十歩も歩かず。ただし、3本脚で立つこと自体は大丈夫なようですが。トイレの際もなかなか踏ん張れないので、回数も少なくという感じです。家の中では、ほぼ寝っぱなしですね。
それでも、(飼い主の欲目かもしれませんが)視線ははっきりしているようだし、近づいてきたネコたちに唸りもします。こういう緊張は対老化によいのかもしれません。また、同じ方向で寝ていると痛いのか、ときどきは立ち上がって水を飲みに行きますよ。でも、食欲はちょっと落ちているかな。
来月には16歳。まあのんびりペースでやってほしいものです。プチ介護生活をしてわかるのは、この仔の12㎏という軽さに大いに助けられているということ。重いと大変なのは人間もいっしょやろうなあ。
「つまづく」と「つまずく」
辞書的には、「つまずく」がまだ正統のように思うけれど、だんだんと標準が変わってきたのだろう。
同じようなものに、「少しずつ」と「少しづつ」がある。ある人の説明では、戦前は「ずつ」だったものを戦後になって「づつ」に変えたという。実にややこしい。
そう言えば、「全然」が否定的な意味合いと一緒でなければ遣えない(「全然できない」といった)といったルールもここ一世紀以内の「最近」のことで、夏目漱石の坊っちゃん(1906年)には「一体生徒が全然悪るいです」と肯定的に書かれているという。
ことほどさように、言葉の使い方や言葉そのものが比較的早いスピードで変化するものである。にもかかわらず、学校などで、これが正しい、これは間違い、と教えようとすること自体が問題ではないだろうか。
「正解」「正答」と言えるものもそれなりにあるのだろうが、数十年、早ければ数年あるいは半年のうちに消費されて消えてしまう「常識」。その数倍も生きようという人間にとって「基礎・基本」とは、「いずれ変わる」ということを学んでおくこと、とも見なせるだろう。その人にとっての得心や納得は、与えられた命の長さに応じるのだから。
「こっちが正しい」という主張は、「そういう見方もある」というくらいに収まってくれていれば可愛いが、振り回されるとしんどいものだ。対話や理解は、違うことを前提に成り立つとも言える。違いを楽しめるゆとりや相対感覚を持ちたいと思う。
2010年4月1日木曜日
惨劇の場となった実科学校の校長、引退へ
同校を2年前に卒業した元生徒で17歳だった犯人の男は、黒づくめの格好で現れ、授業中の生徒や教員、試補教員らに銃を発砲。逃走中にも市民を撃って、合わせて17人を殺害し、さいごは警察官によって射殺された。私の知り合いの友人は、この事件で10代半ばの子どもを失ったという。とても悲しくてやりきれない。
そしてこの1年間、先頭に立ってきたのが、同校校長のAstrid Hahn氏であった。58歳のこの女性は、この学校の校長として7年間を務めたが、「この1年が10年のように思われる」ほどの激務から、新校舎の完成である2011年を待たずに、健康上の理由から年度末(9月)に引退すると、このたび表明したのである。
新たな校長の公募が行われることになるが、教員配置を担うStuttgart地方司令部の部長は「コンフリクト・マネジメントの力が重要で、さまざまな状況に柔軟であること、そして感情移入が幅広くできること」と次の校長に求めるポイントを挙げる。「良い人がいればよいのだが」。
あまりにも悲惨な事件を思い出すとともに、日本とは大きく異なる校長の採用と勤務のあり方についても、改めて確かめる記事だった。
どんな人が後任に来るのだろうか。
[記事は、http://www.stuttgarter-zeitung.de/stz/page/2439301_0_3005_-winnenden-direktorin-verlaesst-albertville-schule.html]
2010年3月24日水曜日
一進一退の春
ねこフリークのみなさま、こんばんは。お元気でお過ごしでしょうか。
関西は連日の雨で、咲き始めた桜が小休止です。まだ花が落ちるほどは開いてはいないので、これから十分に楽しめると思いますが。
今回は「もなか」、今年10歳になります。飼い主バカもいいところで、何度となくご報告していますが、七夕の頃、前の勤務校で学生が救ってくれた仔です。あのとき諦めても仕方なかったほど衰弱していたのに、本当におかげさまで、今日もこんなに元気に過ごしています。飼い始めて数年の独りぼっちはとうにさり、ずいぶんと甘えたになりました。朝食時、気が付けば膝の上に乗っています。
実家の庭からもらってきた桜の枝。屋内だとまたたくまに開花しますね。後ろにちょびっと見えるのは大腿骨骨折で自然治癒中のMaiです。今年の5月で16歳、人間だと80歳くらいなので、寝っぱなしもやむなしですが(でも、人間の食事時にはしっかりと立ち上がってもらいにやってくる現金な犬でもあります)。
こちらでは明日、卒業式です。お天気は変わらぬよう。ゼミ生は全員、希望かなって4月から小学校の教員に。大いに悩みつつ、元気に羽ばたいてほしいと心から願っています。
みなさんにも素敵な春が訪れますように。穏やかな時間を過ごされることを。
逆から考える
和歌山のエジソンと呼ばれる島社長は、編み機の発明家だ。
軍手を縫い合わせる内職に苦労する母親を助けたいと思ったのがきっかけだったというが、そののち軍手が機械にはさまって腕を失ったり命まで落としたりすることを知って、改良された軍手を考案するところを、とても興味深く見た。
当時は「機械の使い方に問題がある」と人の働き方を批判する声が大きかったらしいが、これに対して島社長は、軍手の脱げにくいことが問題だと逆転の発想をして、手首にゴムを入れた軍手を作り出す。
教育論議も多分に似たところがある。「~しなければならない」という矛先はたいていそこで働く人に向けられる。「意識を高めることが必要だ」「気持ち新たに取り組むことが重要だ」と。たしかに、頑張れば何とかなるところもある。しかし、これを仕掛けとして維持するには十分とはいえない。
ある意識をもつということは、そうなりやすい環境が伴っている。その環境に適応した結果としてある事実が生じる面を考えるなら、「主体性」という言葉で環境を軽視するのではなく、まず起こっている事実を「合理的」なものとして捉えることから始めなければならない。
こうした発想を促すためにも、なるべくお説教や励ましを避けること、頑張れば何とかなるのは限られた場合だと観念して、「なぜそうなっているのか」を分析すること、一見遠回りに見えることが実は近道だったりすることを思い返すことが大切ではないだろうか。
「急がば回れ」「負けるが勝ち」「沈黙というおしゃべり」「計画は計画通りに行かない」…逆に考えると見えてくる、おもしろいことがきっとたくさんあるだろう。
2010年3月12日金曜日
歩かねば筋肉が…
こちらはすっかり春模様、いよいよ新しい季節がスタートですね。
さて、ときおりご報告している拙宅のMaiですが、きょう1ヶ月半ぶりに獣医さんに行きました。折れた右足が腫れているのを、家人が気にして診てもらったのです。
再度レントゲンを(ヤブの獣医から数えるとこの2ヶ月で3回、6枚もX線を浴びたことに、これ被爆量多いわ)撮ったところ、折れた骨の周りに新たな骨のできつつあることが確認されました。老いたとはいえ生命力のある様子に安堵。自生の力というか、大したものですね。以前のように思いっきり走る、とは行かないでしょうが、まだまだ頑張ってほしいものです。
腫れについてはまだよくわからず(こんな様子に、家人はこの頃、獣医さんに行ってもなあと諦め気味です。人医と違ってできることがきわめて限られているので)ですが、腫瘍などの可能性も排せないものの、新たな骨の生成に伴うものかもしれないと、とりあえずは様子見となりました。
レントゲン写真を見ながら驚かされたのは、筋肉の変化について。
元気な左後ろ脚に、いま使えない右後ろ脚の分の体重やバランスが大きくかかっているため、左脚の筋肉はずいぶん太くなりました。これに対して事実上使っていない右脚は痩せ細っています。わずかな期間、入院しただけでも足の筋肉が、と人間でもまま言われますが、Maiについても同じ状況です。昔からの言葉、「足腰を鍛えるべし」とはまさに至言ですね。私も気をつけないと…。
そんなこんなで、どうにかやっています。獣医さんから帰ったMaiはくたびれたのか、お休みモード。この5月には16歳を迎えます。人間ならば80歳ちかくでしょうか。
みなさんのワン、ニャンも元気で過ごされますように。
2010年3月4日木曜日
ひこにゃんファンとしては
もちろん、鉄砲を持っている。それを見た家人が「テポドンじゃなきゃいいね」と言うのを聞いて苦笑。
ひこにゃんの友達にとのことだが、う~ん、ねこフリークとしてはひこにゃんだけでいいんだけれど。
ここしばらく、変わらずの原稿書きに疲れているので、癒された一瞬でした、はい。
2010年3月2日火曜日
レプリカでも仕方ないけれど…
歳月には勝てないというべきか、往時の輝きはすでに久しくなく、一対の鳳凰がわずかに雰囲気をたたえるに留まるという印象です。そのあと鳳凰館という資料館に入りました。
すると、中にガラスで囲まれた鳳凰が二つ、鎮座しています。考えてみれば恥ずかしい話ですが、傍らの係の人に思わずたずねてしまいました。「どちらが本物ですか?」
鳳凰堂に飾られているのは、昭和の頃に作られたレプリカで、館の中にあるのが本物、国宝とのこと。
言われてみればたしかに、国宝を雨ざらしにはせんわなあ。ということは、見いひんかったけど、鳳凰堂の中の装飾もレプリカいっぱいやろうということやね。まあ盗む人がいるかもしれんし。
帰り道、子どもの頃によく食べた茶団子を買って帰った次第です。
とまれ、原稿書きの合間、いい気分転換となった散策でした。
2010年2月28日日曜日
なんとかやっております
犬フリークのみなさま、
先日、拙宅のMaiが大腿骨の骨折とご報告しました。
その後、右後ろ脚はもちろん不全なものの、次第に慣れてきたのか、3本脚+αでどうにか散歩に行っています。歩く距離は短いものですが。筋肉を落とすことがないようにと思っているので。
食欲もまずまずです。写真は、ドイツの友人から昨年末もらったペースト状になったソーセージの缶詰の残りをなめているところ(パンに塗ると実に美味です)、こういうのには目がありません。
いまも、自分のベッドと化した座布団(自分のベッドは別にあるのに)の上で、ストーブに当たりながら、よく眠っています。おおよそ快調なのでしょう。
振り返ってみれば、あの「問題」獣医のところに通っていた頃が絶不調だったようにも思われます。途中で行くのを止めて正解でした。自然治癒にまかせます。
たわいないお話しで恐縮。みなさまにも穏やかな時間が流れますように。
2010年2月27日土曜日
敗戦直後でもないかぎりは…
民主党がマニフェストに掲げた「教員養成6年制」について、鈴木寛文部科学副大臣は27日、福井市内で講演し、6年制にこだわらず、「『4年プラスアル ファ』で少なくとも1年間、長期教育実習を抜本的に拡充する」と語った。教師になるまで従来の4年が6年に延びると学生の負担が増すなどの批判があり、マ ニフェストを修正して現実的な案を示した形だ。(朝日新聞、2010年2月27日)
新政権はあれこれの改革を公約にぶちあげたが、またも修正が行われそうだ。
仮に、長期教育実習のための学生の在学年限延長という話ならば、基本的には大学の問題ではなくなる。大学がお願いする学校の負担が問題なのだが…。「実習公害」と嫌がられないかなあ。あるいは、体よくボランティア要員にされたりして…。
教員養成を長期化するほど良いという論理を支えたのは、知識の基盤が安定しており、長期的に「知は力」と言えそうな時代だった。ところが現在、「10年ひと昔」はとうの昔の話となり、来年のことすらわからなくなっている状況だ。入職の前の段階で、「実践的」内容を長く学ぶ意義は何だろうか。
そこでは、早くから「現場」を知ることのマイナス面、職業的保守化や、現職になってからの研修への意欲の喪失(教えられ疲れ)を考えなければならない。長いほど良いという訳ではないのだ。
今回の教員養成改革論が、「大山鳴動して鼠一匹」になるかどうか、政局によるところ大だが、それと同時に、いろいろな既得権と経緯が絡む中、「改革」などというものがなされるはずもなく、またなされるべきでもない、という基本認識が大切ではないか、と強く思う。
いつの時代であれ、「改革論」とことあるごとに主張してきた御仁は少なくないが、教育学を含む社会科学は自然科学と違って、学問の力で制度を変える力は基本的にない、と見極めることが大切だろう。自然科学はそれにしたがい、あるいは踏まえることが人間のメリットになるが、社会がどのように構成されるかは、偶然に決まる部分が大きいし、仮に「法則」がわかったとしても、法則の適用範囲に自分が含まれていれば、そこから離れることは容易でない。「知らなければ良かった」に近い状況になるのだ。ましてや、学問的知見を踏まえて「改革」がなされたと言えるほどに、「改革」の時間は長く続かない。後智恵で「こうしたから、ああなったんだ」と、まるでヒットを打った選手を評する解説者のようなことをするのが関の山である。だったら、打つ前に言わんかい。ほんなら、2つが関係してたんやなって納得するわ。
もっとも例外はある。「大政奉還」や占領下といったきわめて非日常の状況下だ。それならば、時の為政者の意向によって、「非政治的な」チャンネルが生かされ、ある方向が強く示されることはありうる。しかしなが、こんな機会はそう望むことができるものでもないから、総じて「改革」は失敗する。
ひょっとしたら、そんな「改革」ではなく、派手さには欠けるが「静かな革命」が、あとになってみれば変革につながるキーとなっているのかもしれない。真実は細部に宿る、日々の営みを丁寧に見つめたいと、改めて思う。
2010年2月24日水曜日
2ヶ月あとのクリスマス
みなさま、ご無沙汰しています。
この間、あれこれの原稿書きにあたふたしており、またもこちらをなおざりにしてしまいました。余裕のあったのはお正月ちょっとくらいですね。
さて、きょうは嬉しいニュース。ドイツから写真のような小包が届きました。手作りクッキーや小物、クリスマスの贈り物です。
「ちょっと荷物を送ったけれど着いた?」と尋ねられてはいたのだけれど、何も来ないよと返事をしたまま、なんと2月も下旬にやってきました。
見ると、「税関検査のため開披されたものを、弊社にて再装しました」とシールがあり…。検査に引っかかっていたようです(それにしても、開披なんて単語、はじめて見たなあ)。どれほどの日数の足止めを食らったことやら。
遠い旅をしてちょっと時間は経ってしまったけれど、さっそくコーヒーでいただきました。美味しかったよ。
どうもありがとう。
2010年2月14日日曜日
伝統を有り難がる人へ
南北朝時代に始まったとされる多度大社の神事は1978年、猪名部神社は2002年に文化財指定された。いずれの神事でも、急斜面を馬に乗って駆け上がり、駆け上がった馬の数で稲作などの豊凶を占う。馬を興奮させるため「つくる」と称してたたく習慣 があるほか、興奮剤を与えている可能性があるとして、96年ごろから動物愛護団体が「虐待だ」と批判している。また県教委によると、未成年者が飲酒して騎 手を務めている疑いもあるという。県教委は地元住民ら主催者側に改善を求めてきたが、「馬の不適切な扱いが改善されていない」と判断し、調査を決めた。(毎日新聞、2010.2.14 より)
言葉の魔力ともいうべきか、言葉そのものに価値の強い場合は要注意だ。上の記事では伝統、長くやっているから即、よいというわけではない。ましてや動物の「人権」(馬権など)や未成年の飲酒問題(未成年と成年の線引きが法的に決められたのは明治になってから)などが、遠く昔に取り上げられたはずもない。平安時代の貴族が男女平等じゃなかったと怒っても仕方ないのと同じだろう。そもそも、本当にそれほど長く続いてきたのかどうかも怪しい場合があるからなあ。
教育学の分野なら、古くは師弟同行、今なら連携・協働。古くは「なせばなる、なさねばならぬ、何事も…」、今なら「すべては子どものために」といった言葉。ことばはどうしても価値と無関係にはいられないけれど、それでも頑張って、より価値中立的であるように、お互い工夫しようよ。
ことばに騙されないこと、それを使っている他者や自分に酔わないこと、言葉でしかなかなか語れない教育の世界には高いハードルですぞ。
2010年2月11日木曜日
計画を立ててうまく行くためしがない
少し前の放映だが、京都の町屋再生のひとり、「くろちく」社長である黒竹さんの話を興味深く聴いた。
火鉢をワインクーラーにしていた外国人との会食、新しい見方や発想が新たなビジネスを生み出すきっかけだと気づいたとのこと。こうした発想は思いつきや、損をしても構へんという、おおらかさに支えられることを感じさせられるものだった。
計画はたしかに大切だろう。でもそうした短い時間とのつきあい方が発想を縛り、つまらないものにする面もある。予定は未定、いま先が見えているということはそれ以外のことは見えないということでもある。キャリア教育や学校の戦略論など、おもしろいこと(それは不確かなことでもある)を忘れないようにつもりしたい。
30年前、JALが潰れるとはおそらく誰も想像しなかった。そしてパソコンのない生活が成り立たないようになることも同じように想定外だった。だからこそ常に思いたい、瓢箪から駒って楽しいってことを。
2010年2月10日水曜日
外国だからこそ、いっそうマナーを
外国人留学生、そのほとんどは中国人だが、研究生として受け入れてくれと依頼が舞い込む。過日は速達で郵便が届いた。読むと、こちらで勉強したいと便せんに手書きである。新年度が近いから急いでいるのかもと、記された電子メールアドレスに「まずは話をうかがいます」と返事をする。
ところが、以下の日程のいずれかはどうかと書いたのに音沙汰がない。メールが未着なのかもと心配になり、同じく記された電話番号に掛けてみた。留守番電話になっていたので要件を吹き込む。これで相手には伝わっただろうと思う。
そして今日に至るまでも何の連絡もない。数を打てば当たるなのか、他で引き受けてくれる人がいたのかもしれない。
熱心な留学生もいることは知っているから、丁寧に対応したいのだけれど、こうした失礼な例が何回も続くと参る。当然、印象は悪い。仮に受け入れてくれるところが見つかったのなら一報するのが最低のマナーではないだろうか。
自分のために、面識すらない人が時間や労力(ちょっと大げさだが)を割いてくれたことを考えてほしい。そして、こうしたやり方 を続けることで、必ずしも同じではないにもかかわらず「外国人留学生はいつもそうだから…」と、他の留学生に関しても悪い印象を与えてしまっていることに も…。
この間、初めて知った。ある同僚は、そうしたメールは読みもせず、すべて削除しているらしい。受け入れる気は毛頭ないとのこと。そう思うようになるまでの経験があったのだろうけれど、ちょっと残念にも思う。
「自分は祖国の外交官」とまでは思わなくてもいいけれど、多くを知らない外国人にとって、あなたは彼の地の代表でもあるということを知って、礼儀を尽くしてほしい。長期的に大きな損をするかもしれないから。留学生数の大幅な拡大は国策でもあるが、最前線の気持ちはまったく複雑である。
2010年2月2日火曜日
獣医師にもインフォームドコンセントの教育を!
先月、拙宅の犬Maiがかかった「問題な」動物病院のことを思い出し、飼い主と患蓄の権利の拡充をと強く願う。
人間の場合も同じだろうが、飼い主が動物を病院に連れてくるのは困っているからであり、「助けてください」モードなのだから、獣医師に対して弱い立場で現れる。最近は「モンスター患者」もいるそうだが、それでも最終的に自分の命を握っているのは「向こう側」とわかっているのだから、自ずと限界がある(大した状況でもないのにモンスター然でいられるのは、病院にとってやっかいだろうが)。
そして、治療の内容がよくわからないから、「そうですか」と言わざるを得ない。この一言は、獣医師にとって「是非そうしてください」と都合良く翻訳される。素人は判断基準をほとんど持ちえないのだ。
くわえて、人間と違って保険が利かないから、かかった丸々の負担がのしかかる。基準額があるのかどうかも怪しく、明細も必ずしもはっきりせず。受け取るレシートも30年くらい前のスーパーかのよう。数字が並んでいるだけだ。文字通り「言い値」である。悪徳医師にはまったくおいしい業態だろう。
動物に事情を説明してやれないのも悲しい。初めてのところに来た動物はたいてい震え、怖がる。ここでいきなりお尻に器具を入れられたり、注射や点滴をされるのだから、さぞ辛いことだろう。
こうした関係や状況の中で患蓄への医療が行われている。なのに、「別の獣医師の意見を聴きたいので、ここで撮ったレントゲン写真のコピーをもらえませんか」と訪れたら、「渡しません。渡さないというのが方針です」「渡さない、それだけです。それ以上でも以下でもありません」「素人さんに説明しても仕方ありません」。(なぜ渡してもらえないのですかと尋ねても)「もう私は何も話しません、口を開けません」と言い放ったN動物病院。けっきょく渡してくれなかった…。控えめにコピーをと言っているのにである、現物でもええんやで。
痛がるMaiを押さえて、そのレントゲンを撮ったのは、あろうことか獣医師の奥さんと私の家人である。獣医師本人は、被爆を恐れてか別室に避難していた。それでいてこの対応である。
獣医師にそんなに期待できないことはわかっている。だから、飼い主は少しでもよい獣医を求めてさまよっているのだ。だから、情報の提供としっかりとした説明をしてほしい。
日本獣医師会は、飼い主に対するインフォームドコンセントを原則に掲げているではないか。(今回の件は、質問めいた意見として文面にて日本獣医師会に伝えており、返事ももらっている。2度のやりとりもした。同会から京都府獣医師会にも伝えるとのことだ。個々の獣医師は構成会員となるそうで、直接には言えない模様。ええいまどろっこしい)。
病気の動物を抱えておられる方へ。何回か行くと別の獣医師にかかることを申し訳なく、あるいは面倒にも思うこともあるでしょうが、次の獣医を探す努力を、決して惜しまないで。
下手な動物病院に通い続けたら、法外なお金を取られるだけでなく、冒頭の投書にあるように、最後には家族同然の動物を殺してしまうことにすらなりかねませんよ。
2010年1月29日金曜日
骨折だったとは…
この間、拙宅の犬、Maiのことではお騒がせをして恐縮です。
すでにご報告した「問題獣医」を去って、次の獣医さんを急いで求めました。研究仲間の一人が、神経系かもしれないから診てもらったらとアドバイスしてくれたのがきっかけです。
「ここはどうかな」と以前から看板だけは見ていた病院に。繁盛というべきか3組ほど先客あり、「これは期待できるかも」と待つこと30分。若手と中堅の間という感じの獣医さんでした。
触診した獣医さんは「靱帯が切れてますね」と一言。「はあ~」。犬によっては飼い主に飛びついた際に2本脚で立っただけで切れることもあるらしい。そうなのかあと思いながら、「直すのは手術ということになりますが、年齢のこともあるし身体全体を診て考えなければならないので、前の病院のデータをもらってきてください」という声をぼんやり聴く。あの獣医のとこにまた行かんとあかんのかと、いたく滅入る。
(中略)
再び夜に診察に。腰までレントゲンを撮ってもらい、原因が判明。なんと大腿骨が折れていました。午前中の判断は間違いでしたと獣医さん。触診だけではわからんのやなあ。どうやら、最近折れたのではなさそう。かなりの力がかからないと折れませんが、と言われても、いつなんでなったんか、さっぱり見当がつかんけれど。
ネジを入れたり板をはめたりという手術の場合、若い仔でもくっつくのに1年くらいはかかるとのこと。温存療法といういわばそのままにしておいても、骨は付こうとするから、それも一つの選択肢ですねと意見をもらう。
犬の体重の7割は前にかかるのだそうで、3本脚でも歩けるとは初めて知る(ボール投げの遊びはできないけれど)。あとは生活上の負荷をかけないように気をつけてやるくらいかな。
変な話ですが、骨折とはいえ理由がわかってほっとしました。さほど痛がっていないこと、皮膚を突き破るほどの骨折ではないこと、元気で食欲もあること、から、まずは様子見とします。
16歳近いのは、人間で言えば80歳、しかるべき時間を重ねたということかもしれません。
ご心配をおかけしました。
みなさんのご家族にも穏やかな時間が流れますように。
2010年1月27日水曜日
「生きて働く学力」になっていなかった
数学の教師なら期待値を考えなかったのだろうか。質屋で受け取れたかもしれない額…①と、自分がつかまらず予定されていた退職金を得る額…②のそれぞれについて。
①は5000円を上回ることはないので、最大限5000円。
②は大学卒業後間もなく教職に就いていれば、1500万円ほどは見込めるだろう。
①と②の比率は1:3000となるので、①を選ぶには、確からしさが②の少なくとも3000倍なければ合理的な行動とはいえない。しかし、②の方がはるかに確率が高く、反対に①の方の確率が低いことは明瞭だ。
かくして、この御仁はきわめて非合理的な判断をしてしまった。「何のために数学を学ぶのか」…自らに問いが発せられたときに、その答を示してほしかったのだが。
2010年1月25日月曜日
脚は動く!
拙宅のMaiの後ろ右脚が地面に着かず、不自由ながらも3本脚で散歩をしていると、先日ご報告をしました。
今夜ストーブの横で気持ちよさそうに眠っているMaiを見てびっくり。くだんの後脚のつま先(指先?)がぴくぴく動いているではありませんか。
ときどき眠っているときに、前後ろの脚が動くことがあります。寝言と思しき声を出すときもありますよ。きっと思いっきりどこかを駆ける夢を見ているのでしょう。
おそらく今回もそんな夢の最中だったのか、Maiの脚が動きました。ということは、脚そのものの問題というよりも、その上部、腰の辺りの不具合なのか…。
とまれ、われわれには朗報でした。今しばらく様子を見て、「良い獣医さん」を捜したいと思います。3本脚で歩くって、結構疲れそうなので。
中国でもディプロマ・ミル
論文は経済学から医学、法学など多方面にわたり、大学生の卒業論文は1本1000元(約1万3000円)。修士課程論文は3500元(約4万5500円)から、ホワイトカラーの月収にほぼ相当する5000元(約6万5000円)程度までの値段で販売されていたとのこと。昨年は、修士以上の学歴をもつ80人以上を雇って論文を代筆させ、論文を大量販売していた武漢市内の「論文会社」が摘発された。
(2010年1月25日、読売新聞より)
アメリカでの学位製造工場(ディプロマ・ミル)については、小島茂『学位商法―ディプロマミルによる教育汚染』九天社、2007、があるが、学歴主義が機能している地域ではどこでも起こることなのだろう。
ただし、今回の報道は論文を売るというもので、学歴を売ることとはちょっと違う。後者は大学が「主犯」であり、問題の製造元なのだが、前者は、製造された論文を審査する大学が極めてちゃらんぽらんということになるからだ。
つまり、提出された論文を査読し、試問を経た後に学位が授与されるのであって(中国では違うのかしらん)、多くはゼミ生として知っている学生から出される論文だ。その学生が書いたものかどうかについて、問題の設定から先行研究の紹介、データの集め方から分析の手法やその解釈に至るまで、指導している教員がわからないということはあり得ない。そもそも論文はいきなり提出されるのではなく、少しずつ書かれていくもので、全体ができてからも何度も書き直すのが常だから、一度も経過を見ずに出されるのは不可能と言ってすらよいだろう。
仮に「飛び込み」で論文審査ということもありうるが(多くは博士論文だと思うが)、その場合でも試問をすれば、研究テーマが当人の問題となっているのか、どうやって作業を進めたのか、見抜けないことはない。つまり、今回の問題は、論文作成会社が存在するというだけでなく、学位を審査する大学そのものが学術的に怪しいということを示唆している。
学位論文は言うに及ばす、授業でのレポートですら、どこからか黙って引用していればすぐにわかる、それが普通の大学教員だと思うのだが。
2010年1月24日日曜日
4本中の3本は、75%ではなかった
今週は拙宅の犬、Maiのことであたふたしており、落ち着かずでした。
というのは、以前からちょっと変だなあとは思っていたのだけど、右の後ろ脚がぎくしゃくというか、不自由な感じで歩くことがあり…。
それが、とうとうかどうかはわからねど、その脚を地面につけて歩けなくなり、3本でよろよろという状態になってしまったのです。階段を下りることを嫌がり、それでも下ろしたら身体のバランスを保つことができずに、どすんと落ちてしまったことも…。 骨折? 内出血?…素人が頭を巡らせても仕方がなく、10年以上前に、実家に預けていたときに行ったことがあるよと聞いた獣医に連れて行った次第です。
ところが、ところが、血液検査、点滴、フィラリア検査、レントゲンと、あれこれ検査や治療をしても、原因は見つからず。
「血液検査でだいたいのことはわかりますよ」「犬には辛いだろうけれど、レントゲンで見れば判断できるでしょう」などと豪語した(はっきり言わせてもらおう)ヤブ獣医は、結構な額の治療費を請求しながら、何も言えず。あなたねえ。
なんせ、患畜に触ろうとしない御仁で、ほんまに診る気あんのか、と毒づきたくなるような状況ですらあったんよ(急に関西弁で恐縮)。4回目はMaiを連れて行かず、レントゲン結果の説明を聞きにだけ行った。「折れてはいませんね」。はあ、まあ。画像を見れば素人でもおおよそわかるわな。
最後の台詞は「安静にしてもらったほうがいいでしょう」やった。それくらいやったら、ワシでも言えるぞ。そんなとこに、乗りかかった船とはいえ、何度も行ってしもうた。情けない。
とまれ骨折はなし、血液検査でも特段の異常なし、はわかったので、しばらく様子見です。触っても嫌がりはするが痛がるようには見えず、暖かく血流の問題も感じられず。
レントゲンを撮られた日のMaiはすっかりぐったりしていたけれど(無理な体勢を取らせるので)。今日あたりは元気になり、徐々に慣れてきたのか3本の脚でぴょこぴょこ朝も歩いてきました。良く食べ、良く水も飲み、排泄もよく、おとなしく眠り、と快調だけど、歩く格好は痛々しい。4本が3本になったら、その機能は半分にも遠く及ばんなあ。筋肉が落ちないように気をつけたいと思います。
獣医さがしは難しい。良い獣医さんはどこにいるんや!?
2010年1月16日土曜日
「揺れなきゃだめだ」
そこに映った宮大工の一言。「揺れなきゃだめだ」と師匠から教わったという。
法隆寺など1000年を越えるものすらある木造建築に、こういう智恵が含められていたことに驚かされる。
「揺れ」が環境の変化に対応することだと捉えれば、組織も似たようなものと見ることができるだろう。組織の外そして中の環境の変化がしばしば起こることを前提に、しなやかなことがきわめて大切なのだとわかる。
組織を「一丸となって」と強固にイメージするよりも、ゆらぎを自らも起こすことができるようなものと喩えること、環境変化がより激しい学校という場を捉える上でより説明的ではないだろうか。
2010年1月11日月曜日
ここまでくつろがんでも…
授業のバランス
課題の末尾にこの授業に対する評価を求めているが、「驚きの連続だった」「考える授業だった」「先生の授業はいつもみんなをとてもひきつけてくれるので、周りがとても静かでみんなが集中していたと思います」「一度私の頭の中で確立していた教職または教育のあり方というのものが壊れていって、この講義を受ける度にまた構築されていく、不思議な感覚だった」といった記述を、大変嬉しく思う。こちらのねらいをほぼ受け止めてくれているからだ。
教えられるだけでは学べない、しかし教えられなければ学べない。この両者のギリギリのところを何とか歩くことができていれば及第点と考えているが、教員が一方的に話し、黙ってノートを取るスタイルにまったく慣れた学生たちにとって、少なくとも授業のはじめ数回は相当の混乱や困惑があるようだ。
「学生が自ら学ぶ」とほったらかしではなく、かといってかれらに考えさせ、振り返らせる時間やヒントを与える間もないほどに教えるのでもなく…。この両義的な姿を自分の授業でそれなりに表現できるようになるまで、私は長い時間を要したのだった。
2010年1月9日土曜日
嬉しかったこと
このクラスの一人が、「レポートを書いているのですが、読んでもらえませんか」と12月に話をしにきた。聞くと私の授業で触発されたことがあり、自分で調べてみようと思い立ったという。
どうなるかと思っていたら、ちゃんと持ってきた。A4で15枚ほどのボリュームである。
「おわりに」から目を通すと、女性教師の女子生徒と男子生徒への接し方はおそらく違う、という私の授業での言葉から自分のレポートが始まった、とある。読み進むと、女性教師は感情的でヒステリックなイメージが自分の中にあったので、女性教師があまり好きではなかった、と自身の経験が綴られている。なるほど、だから先の発言が自分の興味に重なったんだなと合点できた。
彼女の持ってきたレポートはこの授業の成績と何ら関係ないし、他の授業での課題でもないという。自分で関心を得て、手探りながらも文献にあたり、自分なりにひとつまとめたことを高く評価したい。また、そのきっかけに自分の授業がなりえたことを嬉しく感じている。
2010年1月8日金曜日
「反面教師」健在
1ヶ月やそこらで数十㎏体重を落とすという試みだが、あのやり方はあまりに無茶ではないかと家人に言うと、あれほど体重がある人ならば大丈夫では? と返す。1ヶ月なら3㎏も減れば、身体の変化としては結構大きいと思うのだけれど、本当にあとあと何もないのだろうか。
とまれ、数ヶ月でウン十㎏を落とそうとする人の努力は涙ぐましい。今それほど頑張れんやったら、なんでそうなるまで増えたんや、と思わず突っ込みたくなるが、覆水盆に返らず、仕方がない。まあやるんやったら気いつけてね、と願わずにはおられない。
さて、そこで気づいた。ダイエット番組って、痩せるための努力に感銘を受ける面もあるだろうけれど、「あそこまで増えたらあかんなあ」とか「何でそこで食べるんや」といった気持ちが多分に生まれないだろうか。
あるいは、部屋や家が散乱する「ごみ屋敷」を特集する番組を見て、「あそこまでは汚さんとこ」とか「恥ずかしないようにしよ」といった気持ちを持つことはないだろうか。
もし、そうした面もあるならば、それは立派な「反面教師」と言えるだろう。当人のつもりとは別に、反対の行動をとろうとする契機を与えてくれるものだ。
教育論は多分に「良い」ことを示すことで、それを模倣あるいは規範にしようという論理を構成しがちだ。これとはまさに逆説めくが、この反対「良くない」ことを示すことで、結果的に望ましい効果を期待することもできるのではないだろうか。
おそらくは。順接と逆説の両方がいずれも存在すること、そのややこしさが教育の不思議さやおもしろさではないか、と今さらながらに感じている。
2010年1月7日木曜日
全身スキャンに賛成?
現在、空港で乗客の全身スキャンを行う装置を広範に導入しているのは唯一アメリカであり、この他にイスラエル、ロシア、オーストラリア、スイスにおいて、路線や機種を限定しながらも全身スキャンが実施されているという。
論点は大きく2つあり、その一つは、スキャンによる健康被害の可能性についてだが、より難解な点はもう一つ、個人のプライバシー保護を危うくするのではないか、ということだ。
2010年1月6日水曜日
「表現の自由」論再燃
ムハンマドに火の点いた爆弾の形をしたターバンを巻いたような風刺をしたデンマークの画家、Kurt Westergaard氏が、斧とナイフをもった27歳のソマリア出身のイスラム教徒に自宅を襲われた。5歳の孫娘とともに浴室に逃げて鍵をかけた彼はどうにか難を逃れ、駆けつけた警官が犯人に発砲、逮捕したという。
2005年の風刺ではイスラム教に対する冒涜と世界的に非難が起こり、彼や他の画家に対する抗議として、150名もの自殺があった。現在75歳になる彼は、このことに責任を感じているとも後悔の念を示すとも述べておらず、表現の自由を守るための寄稿と自らの作品を位置づける(以上、http://www.sueddeutsche.de/politik/による)。
デンマークにおける「異文化」や「外人(よそ者)」に対する見方、というバイアスを考慮しなければならないが、一般論として捉えるならば、「ペンは剣よりも強し」とペンを振るわれた側にとっては、「弱い」剣で立ち向かわざるを得ないとも言えるだろう。この一方で、「いかなる場合も暴力はいけない」という主張も可能だろうし、「ペンによる暴力は含まれないのか」と反論も可能だ。
自分の自由と他者の安寧は両立するのか。何十年と経っても、常に同じ基本問題に戻らざるを得ないということなのだろう。
2010年1月5日火曜日
充実感を味わう
こちら、「年の初めの…」に倣って、これまでとちょっと違ったことをしているところです。決して大げさなことでなく、何ということもないのですが、「(敢えて)ゆっくりとやる」という感じでしょうか。去年まででしたら、一定の時間で「なるべく多くのことをする」という姿勢が強かったと思います。これをいわば逆転させて、仮にさっとできるようなことでも、(わざと)ゆっくり、丁寧にやろうとしています。
みなさんからは「何をいまさら、そんなことに気づいたの?」と言われそうですが、こんな風に自分の振る舞いを少し変えることで、充実感がより得られるのではないか、と楽しみにしているところです。
これまでは、どちらかといえば、たとえ、あたふたしながらであっても、多くのことをこなすことで充実した気持ちを持てるのでは、と何となく思ってきたのですが、むしろ、一つひとつのことに丁寧に向き合うことで、そのモノの性質や人となりをより見ることができ、かえって豊かな気持ちに慣れるのでは、などと遅ればせながら思っているところです。
慌てずゆっくりと、おざなりにしないで、自分が出会うものや人に向かいたい。そんな気持ちにいます。「青臭い」話で恐縮でした。
みなさんにも充実した日々が訪れますように。
2010年1月4日月曜日
ねこの押しくらまんじゅう
2010年1月3日日曜日
フィンランドでまた銃乱射
フィンランドで2番目に人口の多いEspooという都市にて、かつての恋人に近づかないよう命じられていた43歳のコソボ出身の男が、この女性と彼女の同僚ら5人を射殺、その後、自分の部屋に戻り、銃で自殺した。警察は人間関係のもつれによるものと見ている。この日に予定されていた町主催の大晦日コンサートは、中止になったという。
2007年、2008年にもフィンランドでの銃乱射が起こり、銃規制を強めるべきと声が挙がっていたそうだが、530万人口に対して160万丁の銃、他国に例をほとんど見ないほどの銃があるとのこと(以上、http://www.tagesschau.de、による)。
学力問題に絡んで「豊かな国、フィンランド」と評する人に即、答を求めるのは酷だろうが、こうした側面も踏まえなければならないならば、いかにグローバル化したとはいえ、なかなか他の地域のことは(自分たちの地域のことですら)わからない、とも考えるべきなのだろう。
2010年1月2日土曜日
2010年1月1日金曜日
新年おめでとうございます
昨年後半は休みばかりで、およそブログの体をなさず、反省しきりです。
こちらを覗いてくださった皆さま、2010年は心機一転、ご期待くだされば幸いです。
昨年の12月、まったくの休暇でドイツに行ってきました。
初めてドイツに訪れてから、すでに20年少しが過ぎました。その間、いくつかの出会いがありましたが、いまや行くところはほぼ決まっており、そこへはもはや旅行というよりも帰省に近い感じです。
それなりに慣れ親しんだ所とはいえども、いまなお新鮮な発見はあるのが興味深いところですが。
たとえば、家族のあり方について。
あるお家にお邪魔しましたが、ご夫婦はいずれも離婚を経験して、現在はいわゆる内縁の夫婦(ドイツ語では、Lebensgefaehrde, と言いますが、生涯を連れ添う、という感じでしょうか。)今のところ結婚はしていません。この二人のところに、それぞれの子どもが集まります。お父さん方の子、お母さん方の子、ということですね。さらにすでに成人となった子どもの中には、離婚して子どもを連れた女性と内縁の夫婦となっている人もいます。この女性は子どもを元夫のところに預けて、今の彼とやってきました。
かれらは、たとえばクリスマスパーティーに集い、ともに食事をしておしゃべりとゲームに興じるのです。こうした人たちが、遠慮しあうことなく互いの愛情を示し合っていることを不思議にも、また羨ましくも感じます。